History

承久の乱はなぜ起きたのか|後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立の背景を史実で整理する

承久の乱は、朝廷が鎌倉幕府に兵を向けた事件として知られています。では、後鳥羽上皇はなぜ挙兵に踏み切ったのでしょうか。

理由は一つではなく、いくつかの出来事が積み重なっています。本記事では事典の記述を執筆者名とともに示し、史料で確かめられることと研究上の解釈を分けて整理します。

※本記事にはPR・広告リンクが含まれます。

結論

承久の乱はなぜ起きたのか。結論から言うと、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方が衝突した戦いです。挙兵からおよそ1か月で上皇方が大敗し、鎮圧されました(コトバンク「承久の乱」(世界大百科事典ほか))。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵した理由は、次の流れで整理できます。

  • 建保7年(1219年)、3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺された
  • 実朝の死後、後鳥羽上皇は幕府との友好を保つ意欲を失い、討幕を決意したと考えられている
  • 寵愛する白拍子(舞を演じる芸能者)・亀菊の所領の地頭解任を幕府が拒むなど、対立が重なったとされる
  • 承久3年(1221年)5月15日(旧暦)、上皇は執権北条義時の追討を命じる宣旨を出したとされる

戦いは幕府方の勝利に終わりました。三上皇が配流され、京都には六波羅探題が置かれ、没収地には新たな地頭が入りました。朝廷と武家政権の関係は、この乱を境に大きく変わります。

ただし、上皇が倒そうとしたのが「幕府そのもの」か「義時個人」かは、見方が分かれています。この点は後半で両論を紹介します。

本文

ここからは、年表で全体の流れをつかんだうえで、後鳥羽上皇が決断に至った背景、研究者の見方が分かれる論点、乱の結果の順に見ていきます。月日はすべて旧暦です。

本記事では、複数の事典が独立に記している事実を「確度:高」、主に一つの事典の記述に基づく見解を「確度:通説」として区別します。

一般向けの解説記事の多くは、どの情報がどの史料・研究者に基づくかを示さずに書かれています。本記事ではこの区別を崩さずに進めます。

対立から挙兵までの経緯を年表で整理する

年月日(旧暦) 出来事 確度
建保7年(1219年)1月27日 源実朝が鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の式の際、甥の公暁に暗殺される 高
承久元年(1219年)7月13日 内裏の警固を担っていた源頼茂が追討を受け、仁寿殿に火をかけて自害したとされる 通説
挙兵より前 上皇が亀菊の所領の地頭解任を求め、幕府が拒否したとされる 通説
承久3年(1221年)5月15日 上皇が北条義時追討の宣旨を出し、京都守護の伊賀光季を襲撃させたとされる 通説
承久3年(1221年)6月13・14日 木曽川(尾張川)沿岸の戦いで幕府方が上皇方を破ったとされる 通説
承久3年(1221年)6月15日 幕府方が京都へ攻め入ったとされる 通説
乱後 三上皇の配流、六波羅探題の設置、新補地頭の補任 高

1219年は、事典によって建保7年・承久元年の両方で表記される年です。実朝の暗殺と頼茂の事件は、同じ年の出来事にあたります。

宣旨の日付や合戦の日付は、日本大百科全書(執筆: 上横手雅敬)の記述に基づきます。ほかの辞典は「挙兵からおよそ1か月で鎮圧」という大枠を記すにとどまるため、細かな日付は通説として扱っています。

幕府方は東海道・東山道・北陸道の三方面から軍を進めたとされます(コトバンク「承久の乱」日本大百科全書)。

後鳥羽上皇はなぜ義時打倒を決断したのか

実朝の暗殺と公武関係の変化

源実朝は、建保7年(1219年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式に臨んだ際、甥の公暁に殺されました。

日本大百科全書(執筆: 多賀宗隼)と世界大百科事典(執筆: 目崎徳衛)が、同じ日付・場所・犯人を記しています(コトバンク「源実朝」)。

日本大百科全書「承久の乱」(執筆: 上横手雅敬)は、実朝の死によって後鳥羽上皇が幕府と友好関係を保つ意欲を失ったという見方を示しています。

上皇はそれまでの公武融和、つまり朝廷(公家)と幕府(武家)が協調する方針を捨て、討幕を決意したと考えられています。実朝の死は、上皇と幕府の関係を変える転機だったといえます。

源頼茂の乱と内裏の焼失

同じ1219年の7月13日、内裏(天皇の住まい)の警固を担っていた源頼茂が、謀反の疑いで追討を受け、子の頼氏らとともに内裏の仁寿殿に火をかけて自害したとされています(コトバンク「源頼茂」)。

この経緯は『日本人名大辞典+Plus』の記述に基づくもので、独立した別の典拠は確認できていません。焼失の範囲や、将軍の後継をめぐる動きとの関連については、本記事では断定を控えます。

亀菊の所領問題

日本大百科全書(執筆: 上横手雅敬)によれば、後鳥羽上皇は寵愛する白拍子(舞を演じる芸能者)の亀菊の所領である摂津国長江・倉橋両荘について、地頭の解任を幕府に求めたとされます。

地頭とは、幕府が荘園などに置いた現地の管理者です。幕府はこの要求を拒み、北条時房を上洛させて回答させたとされています。

この所領問題は、原因の一つとして一般向けの解説でも広く紹介されています。ただし荘園名まで確認できる典拠は一つに限られるため、通説として扱います。

ここで触れておきたいのは、義時自身の立場です。義時は実朝の死後、将軍を補佐し幕府の政務を統括する執権として、幕府の実務を担っていました。上皇が出した宣旨が名指ししたのは、この執権という地位にあった義時でした。

史実と広く知られる通説の違い

承久の乱は「後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした戦い」と説明されることが多くあります。一方で、上皇が狙ったのは執権北条義時という個人だった、という見方もあります。

立場 典拠 討伐の対象
幕府打倒説 日本大百科全書「承久の乱」(上横手雅敬) 鎌倉幕府という統治機構
義時個人追討説 坂井孝一『承久の乱』(中公新書、2018年) 執権北条義時

日本大百科全書は冒頭で、承久の乱を次のように説明しています(コトバンク「承久の乱」日本大百科全書)。

後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討とうとして挙兵し、敗れた内乱。

一方、坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』について、出版社の紹介文によれば、挙兵は次のように説明されています(中央公論新社)。

朝廷に君臨する後鳥羽上皇が、執権北条義時を討つべく兵を挙げたのだ。

上皇が出した宣旨は、義時の追討を命じるものだったとされます。その名目を「幕府全体への攻撃」と読むか、「義時の排除」と読むかで評価が分かれる、と整理できます。どちらか一方を正解とはせず、両方の見方を知っておくとよいでしょう。

なお、乱の際に北条政子が御家人へ語ったとされる演説は、本記事では扱いません。別記事「北条政子はなぜ『尼将軍』と呼ばれたのか」で解説しています。

諸説・論争点|兵力19万は史実か

乱の規模を伝える数字にも、注意が必要です。鎌倉幕府の「正史」とも呼ばれる『吾妻鏡』は、承久3年(1221年)の記述で幕府方の軍勢を19万と記しています。

立場 内容 典拠
記載どおり採用 幕府方19万を乱の規模を示す記述として引用する 『吾妻鏡』
史料批判の立場 朝廷軍は約2000、幕府軍は約1万5000程度と推定 本郷和人

東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏は、鎌倉期の統治能力でそれほどの軍を動員できたとは考えにくいとしています。そのうえで、朝廷軍を約2000、幕府軍を約1万5000程度と推定しています(現代ビジネス)。

藪本勝治『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実』(中公新書、2024年)は、承久の乱を扱った章を「執権政治の起源を語る軍記物語」と位置づけています(紀伊國屋書店)。

同書は『吾妻鏡』を客観的な記録としてではなく、編纂の意図を持つ物語として検証しています。19万という数字をそのまま事実とするか、誇張を含む記述とみるかは、史料の性格をどう読むかにかかっています。

乱の結果、朝廷と鎌倉幕府の関係はどう変わったか

乱の結果、朝廷の側は大きく姿を変えました。次の点は、複数の事典が独立に記しています。

項目 乱後の変化
上皇の配流 後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐へ
天皇の交代 仲恭天皇が廃位され、茂仁王が後堀河天皇として即位
院政 守貞親王が即位を経ないまま太上法皇(後高倉院)として院政を開始
京都の拠点 六波羅探題を新設し、北条泰時・時房を配置
西国の所領 朝廷方から没収した所領に新補地頭を補任

太上法皇とは、天皇の位を退いた人に贈られる地位です。守貞親王は天皇の位についた経験が無いまま、乱後にこの地位に就いて院政を始めました。

皇位の継承と院政の担い手は、守貞親王の系統へ移りました(コトバンク「後高倉院」)。

六波羅探題は、朝廷との交渉、西国の御家人の統率、京都の治安維持などを担いました。乱の後、幕府の機関が京都に置かれ、朝廷との窓口になったことになります。

新補地頭とは、乱の後に新しく任じられた地頭のことです。朝廷方に与した公家・武士から没収した所領に置かれました(コトバンク「新補地頭」)。

坂井孝一氏の著書が副題に「真の『武者の世』を告げる大乱」と掲げるように、承久の乱は公武の力関係の転換点として位置づけられています。

ゆかりの地・史跡

承久の乱に関わる場所は、いまも各地に残っています。

場所 所在地 乱との関わり
鶴岡八幡宮 鎌倉 源実朝が暗殺された場所
水無瀬神宮 大阪府三島郡島本町とされる 後鳥羽上皇の離宮跡とされる
隠岐神社・後鳥羽院資料館 隠岐・海士町とされる 後鳥羽上皇の配流地
北条義時邸跡 静岡県伊豆の国市 北条義時の邸宅跡とされる史跡

水無瀬神宮と海士町の情報は観光情報サイトに基づくもので、公式サイトでは確認できていません。訪れる際は、各施設の公式サイトで最新のアクセス・開館時間・料金を確認してください。

まとめ

承久の乱は、一つの原因で起きた戦いではありません。実朝の暗殺で公武の関係が揺らぎ、源頼茂の事件や亀菊の所領問題といった対立が重なり、後鳥羽上皇は義時追討の宣旨に踏み切ったと考えられています。

戦いは幕府方の勝利に終わり、三上皇の配流、天皇の交代、六波羅探題と新補地頭の設置によって、朝廷と武家政権の関係は大きく変わりました。

一方で、上皇の狙いが幕府全体か義時個人か、『吾妻鏡』の兵力19万をどう読むかは、研究者の見方が分かれる論点です。

さらに深く知りたい方は、坂井孝一『承久の乱』(中公新書、2018年)や藪本勝治『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実』(中公新書、2024年)を手に取り、本記事の年表と照らし合わせながら読んでみてください。

学術的に掘り下げたい方には、長村祥知『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)もあります。

参考文献・典拠

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