徳川家康はなぜ正室・築山殿と嫡男・信康を殺さねばならなかったのか|史実を整理する
天正7年(1579年)、徳川家康は正室・築山殿と嫡男・松平信康を失いました。信長が命じたとする通説の典拠は江戸期の『三河物語』で、同時代の一次史料に信長の命令は出てきません。史料でわかることと諸説が割れる点を整理します。

天正7年(1579年)、徳川家康は正室・築山殿と嫡男・松平信康を失いました。信長が命じたとする通説の典拠は江戸期の『三河物語』で、同時代の一次史料に信長の命令は出てきません。史料でわかることと諸説が割れる点を整理します。
お市の方はなぜ北庄城で柴田勝家と共に自害を選んだのか。浅井長政の滅亡時には娘たちと生き延びた人が、二度目は逃げなかった理由を「渓心院文」など史料と研究者の見解から整理し、生存説など俗説との違いも確認します。
柴田勝家は北庄城で妻お市の方とともに最期を遂げましたが、子孫にあたる血脈はそこで途絶えていません。孫とされる柴田勝重は落城時に城を脱出し、のちに徳川家の旗本になったと伝わります。史料でわかること・言い伝え・確認できていないことを分けて整理しました。
織田信雄は自らの宿老3名を秀吉への内通を疑って誅殺し、徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いに至りました。対立の発端と経緯、いまも見解が分かれる論点を、公的資料と研究者の見解から整理します。
柴田勝家の養子でありながら長浜城を秀吉に明け渡した柴田勝豊。なぜ養父を裏切る形になったのかを、同時代の記録『柴田退治記』と研究者の解説から整理し、賤ヶ岳の戦いへの影響、開城日をめぐる未確定点、ゆかりの地までを解説します。
お市の方は小谷城落城では生き延び、10年後の北庄城では自害を選びました。同時代史料『柴田退治記』と江戸期の覚書『渓心院文』を区別しながら、自害の理由をめぐる通説と俗説、生存説や出自の論争まで整理します。
佐久間盛政が秀吉の助命を断って死んだという逸話は、近世の軍記物に由来し同時代史料の裏づけがありません。賤ヶ岳の戦いから処刑までの流れを、確かめられる事実と後世の脚色に分けて整理します。
豊臣秀長と千利休はどんな関係だったのか。天正14年(1586年)の「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相」という言葉を軸に、二人の役割分担と、秀長の死が利休の運命に与えた影響を、史料の確度を分けて整理します。
浅井三姉妹の茶々・初・江は、北ノ庄城落城後にまったく違う人生を歩みました。豊臣家に残った茶々、和議を仲介した初、徳川将軍家の御台所となった江。三者三様の運命を分けた理由を出典つきで整理します。
賤ヶ岳の七本槍は同時代の記録では9人だった。外された桜井佐吉・石河兵助は誰か、なぜ7人に絞られたのか。福島正則・加藤清正ら7人の武功と、関ヶ原を経てたどり着いた場所を史料から整理します。