京都御苑・蛤御門に残る弾痕
History

禁門の変はなぜ起きたのか|八月十八日の政変から武力衝突に至る経緯を整理する

※本記事にはPR・広告リンクが含まれます。

元治元年(1864年)7月、京都御所の門の周辺で、長州藩兵と会津・薩摩などの諸藩軍が衝突しました。禁門の変、または蛤御門の変と呼ばれる事件です。

なぜ長州藩は、御所の近くで兵を動かすところまで進んでしまったのでしょうか。「長州が暴発した」の一言では、その前の約1年に何があったのかが見えてきません。

この記事では、事典・研究論文・自治体の資料をもとに、禁門の変のきっかけと背景を順を追って整理します。

結論

京都御苑・蛤御門に残る弾痕

京都御苑 蛤御門の弾痕(撮影: Wadakon、CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons)

禁門の変(蛤御門の変)がなぜ起きたのかを短くまとめると、「京都を追われた長州藩が、嘆願による復帰に行き詰まり、武力で失地回復を図った結果」と考えられています。

きっかけは一つではなく、次の段階が積み重なっています。

  • 文久3年(1863年)の八月十八日の政変で、長州藩と尊攘派公卿が京都から排除された
  • 藩主父子の名誉回復と七卿の赦免を求める嘆願が、朝廷に受け入れられなかった
  • 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件で、藩内の進発論(武力上京論)が勢いを増した
  • 慎重派が進発派を抑えきれず、家老らが兵を率いて上京した

その結果、元治元年7月19日(1864年8月20日)早朝に戦闘が起き、長州藩は敗れました。戦端の時刻は事典によって幅があり、7月18日夜とするものもあります(理由は後述の「諸説・論争点」で説明します)。

御所へ発砲したことで長州藩は「朝敵」とされ、第一次長州征討へつながったと考えられています(コトバンク「禁門の変」)。

本文

ここからは、結論で挙げた段階を年表で確かめ、通説との違い、見解の分かれる点、ゆかりの地の順に見ていきます。日付は和暦(旧暦)で示し、西暦を併記します。

時期 できごと 長州藩の状況
文久3年8月18日(1863年9月30日) 八月十八日の政変 禁門警備を免じられ、京都から排除される
政変後〜元治元年(1864年) 雪冤・七卿赦免の嘆願運動 入京の請願が許可されない
元治元年6月4日(1864年) 率兵上洛を決定 失地回復へ動き出す
元治元年6月5日(1864年) 池田屋事件 藩内で進発論が勢いを増す
元治元年7月19日(1864年8月20日) 禁門の変(蛤御門の変) 敗北し、朝敵とされる
元治元年7月下旬(1864年8月) 藩主父子への追討令 征討の対象になる(日付は出典で異なる)
元治元年12月27日(1864年) 第一次長州征討の撤兵令 恭順の形で終結

事件の流れを年表で整理する

文久3年8月18日の政変(1863年)|長州藩が京都を追われる

文久3年8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とする公武合体派が宮中を制し、尊攘派の長州藩兵と急進派の公卿を京都から排除しました。八月十八日の政変です。

公武合体派は朝廷と幕府の協調で政局の安定を図る立場、尊攘派は「尊王攘夷」を掲げて外国勢力の排斥を唱える勢力を指します。

この政変で長州藩は禁門警備の任を解かれ、藩主父子も処罰されたと考えられています(コトバンク「禁門の変」)。

同時に、三条実美ら尊攘派公卿7名が長州藩を頼って京都を離れました。いわゆる「七卿落ち」です(コトバンク「三条実美」)。

嘆願運動の停滞|名誉回復の道が閉ざされる

政変のあと、長州藩内では藩主父子の雪冤(無実の罪をすすぐこと)と、七卿の赦免を求める嘆願運動が続きました。

しかし朝廷側には長州藩への疑念があり、入京の請願は許可されなかったと考えられています(コトバンク「蛤御門の変」)。正規の手続きで京都へ戻る道が閉ざされた状態が続いたわけです。

この雪冤運動の急先鋒だったのが来島又兵衛です。山口県立図書館が公開する資料では、来島は政変後に遊撃隊(遊撃軍)を創設したとされています(来島又兵衛に関する資料(PDF))。

元治元年6月5日の池田屋事件(1864年)|強硬派に火がつく

元治元年6月5日(1864年)、新選組が京都・池田屋で、長州系をはじめとする尊攘派志士を襲撃しました。池田屋事件です。

見落とされやすいのは、長州藩がその前日の6月4日に、失地回復を目指す率兵上洛をすでに決めていたとされる点です(霊山歴史館 企画展「新選組と京の動乱」紹介ページ)。

つまり池田屋事件は上京の唯一の原因ではなく、すでに動き始めていた流れを強める出来事だったと考えられています。

進発論と自重論の対立|藩論はなぜ強硬に傾いたのか

池田屋事件の報が長州に届くと、藩内では進発論が勢いを増しました。進発論とは、兵を率いて京都へ上ることを求める主張です。

一方で、慎重に構えるべきだとする自重論もありました。主な人物を整理すると次のとおりです。

立場 主な人物 主張
進発論 来島又兵衛・真木和泉 兵を率いて上京し、失地回復を図る
自重論(慎重論) 木戸孝允・高杉晋作・周布政之助 武力による上京に慎重

両派は対立しましたが、自重論の側は進発派を抑えきれなかったと考えられています(コトバンク「蛤御門の変」)。来島又兵衛は池田屋事件のあと、自ら創設した遊撃隊を率いて上京しました。

続いて、国司信濃・福原越後・益田右衛門介(弾正)の3家老が、来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉らを伴って先発します。

3家老は、世子(藩主の跡継ぎ)毛利定広が率いる本隊の到着を待たずに上京し、布陣したとされています(コトバンク「禁門の変」)。

元治元年7月19日(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)|3か所での衝突

元治元年7月19日(新暦1864年8月20日)早朝、長州藩兵と諸藩軍が、伏見・蛤御門・堺町御門の3か所で交戦しました。

相手方は、京都守護職(京都の治安維持を担った幕府の役職)松平容保の会津藩を中心に、薩摩藩・桑名藩などが加わった軍勢です(コトバンク「蛤御門の変」)。

戦闘では、進発を主導した人々が相次いで命を落としました。

人物 戦いでの結末 典拠
来島又兵衛 蛤御門付近で遊撃隊・力士隊(力士を中心に編成した部隊)を率いて会津・桑名・薩摩の藩兵と交戦し、狙撃されて戦死 山口県立図書館の資料
久坂玄瑞 負傷し、朝廷への嘆願のため入った鷹司邸で自刃 コトバンク
真木和泉 敗戦後に同志と天王山へ退き、翌日自刃 久留米市の資料(PDF)

長州藩兵が放った火は鷹司邸を焼き、木造家屋の多い京都市中へ燃え広がりました。この大火は「どんどん焼け」と呼ばれます。

焼失戸数や死傷者数は出典によって大きく食い違います。長州側・幕府側で算定方法自体が異なるとみられ、公的機関による確定値も確認できていません。

規模感としては「京都市中の広い範囲に及んだ」ことは複数の資料で共通していますが、具体的な戸数・人数は資料ごとに幅があります。ここでは「焼失家屋が多数に上った」とだけ記します。

第一次長州征討へ|「朝敵」とされた長州藩

長州藩兵が京都御所へ発砲したことを理由に、朝廷は長州藩を朝敵とみなし、藩主毛利敬親・定広父子への追討令が出されたと考えられています。

追討令の日付は出典によって7月21日・23日・24日と分かれるため、ここでは「7月下旬(1864年8月)」としておきます。幕府はこの朝命を受けて諸藩に征討を命じました(コトバンク「禁門の変」)。

第一次長州征討では、尾張藩主徳川慶勝が征長総督、越前藩主松平茂昭が副将を務め、中国・四国・九州の21藩に出兵が命じられました。

ただし直接の戦闘には至らず、長州藩が恭順する形で、元治元年12月27日(1864年)に撤兵令が下されて終結したとされています(コトバンク「長州征伐」)。

その後の長州藩の動向や戊辰戦争の戦闘については、この記事の範囲を超えるため別記事で扱います。

史実と広く流布する通説との違い

禁門の変は「長州藩の暴発」と短く語られがちです。しかし事典や資料をたどると、単純化された見方とは違う姿が見えてきます。

よくある見方 資料から見える姿
長州藩は最初から武力で京都を奪うつもりだった 政変後は嘆願運動が続き、請願が許可されない状態が続いていた
池田屋事件が上京の直接の原因だった 率兵上洛の決定は事件前日の6月4日とされ、事件は流れを強める役割だった
長州藩は一枚岩で開戦に向かった 木戸孝允・高杉晋作・周布政之助らの自重論があり、藩内は割れていた
被害の規模ははっきりしている 焼失戸数・死傷者数は出典間で食い違い、確定値は確認できない

とくに「長州藩は一枚岩で開戦に向かった」という見方は、事件の理解に欠かせない点です。慎重論を唱えた人物がいたにもかかわらず、池田屋事件で高まった空気のなかで進発派が藩論を制した、という経緯が背景にあります。

諸説・論争点

今回の調査では、研究者どうしが正面から対立している論点までは確認できませんでした。ただし、一般向けの解説と学術研究、あるいは事典どうしで記述が分かれる点があります。

薩摩藩と西郷隆盛の役割

西郷隆盛の肖像画(石川静正筆)

西郷隆盛の肖像(石川静正筆、1871年以降制作、鹿児島県立歴史・美術センター黎明館所蔵。パブリックドメイン、Wikimedia Commons)

一般向けの解説記事では、西郷隆盛が前線で薩摩藩兵を指揮したと描かれる傾向があります。ただし、こうした記事の多くは学術的な出典を示していません。

一方、町田明広「禁門の変における薩摩藩の動向」(2017年、神田外語大学紀要)は、別の姿を示しています(論文PDF)。

  • 薩摩藩は当初は中立の立場を取り、長州との武力衝突は避けられないと判断して方針を転換した
  • 幕府との交渉と、戦闘時の薩摩軍の総指揮は小松帯刀が担った
  • 西郷吉之助(隆盛)は他藩との交渉や公家への働きかけを分担した

どちらが正しいと断定はできませんが、「西郷が指揮した」とする描き方は出典の裏付けが弱い点に注意が必要です。

戦闘が始まった日時

戦端については、ブリタニカ小項目事典や精選版日本国語大辞典が「元治元年7月18日夜」とする一方、世界大百科事典や山川日本史小辞典などは「7月19日早朝」としています。

いずれも元治元年7月(新暦1864年8月)である点は一致しており、違いは開戦時刻の捉え方にあると考えられます。

ゆかりの地・史跡

禁門の変の舞台は、現在も京都やその周辺でたどることができます。

史跡 関わり 典拠
蛤御門(京都御苑西側) 激戦地の一つ。当時の弾痕が残るとされる 国土交通省 多言語解説文データベース
天王山 真木和泉が退き、自刃した地 久留米市の資料(PDF)
鷹司邸跡 久坂玄瑞が自刃した邸宅の跡 コトバンク「蛤御門の変」

京都御苑・蛤御門に残る弾痕

京都御苑 蛤御門の弾痕(撮影: Wadakon、CC BY-SA 4.0、Wikimedia Commons)

蛤御門は京都御苑の西側にあり、禁門の変当時の弾痕が現存するとされています。

ただし門は、明治10〜16年の大内保存・京都御苑整備事業で、当初の位置から約30m西へ移設されています(国土交通省 多言語解説文データベース)。訪れる際は、現在の場所が戦闘当時と同じではない点を覚えておくとよいでしょう。

なお「蛤御門」の名の由来は、大火の際に門が開かれたことにちなむという説明が広く知られています。一方で、それより古い延宝5年(1677年)の古地図にすでに「蛤門」の名がみえるとする発表もあり、由来ははっきりしていません。

鷹司邸跡や天王山の具体的な所在や見学方法は、訪問前に現地の案内や自治体の情報で確認してください。

まとめ

禁門の変(蛤御門の変)がなぜ起きたのかを振り返ると、次のような積み重ねが見えてきます。

  1. 八月十八日の政変で、長州藩と尊攘派公卿が京都を追われた
  2. 名誉回復と七卿赦免の嘆願が許可されなかった
  3. 率兵上洛の決定直後に池田屋事件が起き、進発論が勢いを増した
  4. 自重論が進発論を抑えきれず、家老らが本隊を待たずに上京した
  5. 御所周辺での敗北と発砲により朝敵とされ、第一次長州征討へ進んだ

「暴発」の一語ではなく、約1年にわたる行き詰まりと藩内の対立が背景にあったと捉えると、事件の見え方が変わります。

京都を訪れる機会があれば、蛤御門の弾痕を実際に見て、この経緯を思い返してみてください。続けて、第一次長州征討の結末や、自重論を唱えた高杉晋作のその後を調べると、幕末の政局がさらに立体的に見えてくるはずです。

参考文献・典拠

おすすめ商品

この記事で取り上げた人物・論点をさらに詳しく知りたい方に、関連する書籍をご紹介します。

Supported by Rakuten Developers

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です