秀長はなぜ四国攻めで戦う前に勝敗を決めようとしたのか|圧倒的兵力と調略の理由
天正13年(1585年)の四国攻めで、総大将の羽柴秀長は決戦ではなく圧倒的兵力・大船団・三方面同時侵攻・調略を選びました。その理由を、関白就任の日程や背後の脅威から史料に沿って整理します。

天正13年(1585年)の四国攻めで、総大将の羽柴秀長は決戦ではなく圧倒的兵力・大船団・三方面同時侵攻・調略を選びました。その理由を、関白就任の日程や背後の脅威から史料に沿って整理します。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、羽柴秀長は伊勢戦線と織田信雄との交渉役を担ったとされます。長久手の大敗から11月の単独講和までの流れを、史料の確度別に整理します。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、羽柴秀次は約2万の三河中入り軍の総大将に据えられながら白山林で奇襲を受け、池田恒興・森長可を失う大敗を喫しました。なぜ秀吉の甥が総大将だったのか、なぜ崩れたのかを、自治体史料や研究の到達点をもとに確度を分けて整理します。
柴田勝家の養子でありながら長浜城を秀吉に明け渡した柴田勝豊。なぜ養父を裏切る形になったのかを、同時代の記録『柴田退治記』と研究者の解説から整理し、賤ヶ岳の戦いへの影響、開城日をめぐる未確定点、ゆかりの地までを解説します。
賤ヶ岳の戦いの史実を、確度のはっきりした事典・研究者の指摘に沿って整理。柴田勝家と羽柴秀吉が争った理由、前田利家の離脱をめぐる密約説の根拠、美濃大返しや七本槍など通説との違い、古戦場と北の庄城址への行き方までまとめました。