秀長はなぜ四国攻めで戦う前に勝敗を決めようとしたのか|圧倒的兵力と調略の理由
天正13年(1585年)の四国攻めで、総大将の羽柴秀長は決戦ではなく圧倒的兵力・大船団・三方面同時侵攻・調略を選びました。その理由を、関白就任の日程や背後の脅威から史料に沿って整理します。

天正13年(1585年)の四国攻めで、総大将の羽柴秀長は決戦ではなく圧倒的兵力・大船団・三方面同時侵攻・調略を選びました。その理由を、関白就任の日程や背後の脅威から史料に沿って整理します。
天正13年(1585年)の四国征伐で、秀吉は10万を超える大軍を動かしながら自ら渡海せず、弟の秀長を総大将に据えました。佐々成政への備え、秀吉の病、関白就任の政治日程、秀次の育成という4つの事情を史料と事典の記述から整理します。
長宗我部元親は若いころ「姫若子」と呼ばれながら、1560年の初陣を境に「鬼若子」と評されるようになったと伝わります。二つの異名が生まれた背景と、史料としてどこまで確かめられるのかを整理します。