加藤清正はなぜ徳川方についたのか|石田三成との対立を史実で整理する
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加藤清正はなぜ徳川方についたのか|石田三成との対立を史実で整理する

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加藤清正は、豊臣秀吉に幼いころから仕えた「子飼い」の武将です。その清正が、なぜ関ヶ原合戦では徳川家康の東軍についたのでしょうか。「石田三成と仲が悪かったから」と一言で片づけられることが多いものの、史料をたどると事情はもう少し複雑です。

この記事では、確かな史料で裏付けられる事実と、後世に生まれた逸話や研究者の間で見解が分かれる点を区別しながら、清正が徳川方についた経緯を整理します。

加藤清正はなぜ徳川方についたのか

先に答えを示すと、加藤清正が徳川方(東軍)についた理由は一つに絞れるものではなく、複数の要因が重なった結果と考えられています。「豊臣家を裏切った」と単純に言い切れる話ではありません。主な要因は次の3つです。

要因 時期 内容
講和方針をめぐる対立 文禄・慶長の役(1592〜98年) 講和を進める石田三成・小西行長と、領土割譲を主張する清正が対立。清正は1596年に伏見での蟄居を命じられた
七将事件 慶長4年(1599年) 前田利家の死後に三成との対立が表面化し、家康の調停で三成が佐和山城へ退いた
九州での立場 慶長5年(1600年) 東軍方として、九州で小西行長ら西軍勢力の攻略にあたった

一方で、関ヶ原直前の清正と家康の関係は、必ずしも良好ではなかったとされています。さらに清正は、慶長16年(1611年)の二条城会見で豊臣秀頼(秀吉の遺児で、当時の豊臣家当主)に同行しています。清正を「豊臣家を見限った武将」とだけ見ると、こうした晩年の姿を説明しにくくなります。

加藤清正の生涯年表(誕生から死去まで)

ここからは、清正の生涯を年表で確認したうえで、三成との対立がどのように深まり、東軍方としての行動につながったのかを順に見ていきます。あわせて、広く知られた逸話のうち史実として扱えないものや、研究者の間で見解が分かれている論点も紹介します。

加藤清正の生涯を年表で整理

清正は永禄5年(1562年)、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で、刀鍛冶・加藤清忠の子として生まれたとされています。母方の縁で羽柴(豊臣)秀吉に小姓として仕え、「秀吉子飼い」の武将として知られるようになりました(コトバンク「加藤清正」)。

年(和暦・西暦) 主な出来事
永禄5年(1562年) 尾張国中村で誕生
天正11年(1583年) 賤ヶ岳の戦いで功を上げ「賤ヶ岳七本槍」(秀吉配下で特に武功を挙げた7人の武将を指す呼称)の一人に。3000石を得る
文禄元年(1592年) 文禄の役で第二軍を率いて渡海。会寧で朝鮮の二王子を捕らえる
慶長元年(1596年) 講和を妨害したとして伏見での蟄居を命じられる
慶長2〜3年(1597〜98年) 慶長の役で蔚山城に籠城し、明・朝鮮連合軍の包囲に耐える
慶長4年(1599年) 前田利家の死後、石田三成との対立が表面化(七将事件)
慶長5年(1600年) 関ヶ原合戦。九州で東軍方として行動
関ヶ原後 肥後一国の太守となり、治水・干拓を進める
慶長16年(1611年) 二条城会見で秀頼に同行。帰路に発病し、同年6月24日に死去

表の内容は事典類や研究者の解説に基づく通説です。日付はいずれも旧暦で示しています。

石田三成・小西行長との対立はどこから始まったか

対立の出発点は、朝鮮出兵のさなかにあったと考えられています。清正は文禄元年(1592年)の文禄の役で第二軍を率いて渡海し、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を会寧で捕らえるなどの戦功を挙げました。

その後の対明講和交渉では、領土割譲を主張する清正と、講和を進める石田三成・小西行長ら「講和派」が対立したとされます。清正は講和を妨害したとして、慶長元年(1596年)正月に伏見での蟄居を命じられました。歴史学者の渡邊大門氏は、山田貴司氏の論文を引きながらこの経緯を解説しています(Yahoo!ニュース エキスパート「加藤清正が石田三成と対立したのは、文禄・慶長の役のときのトラブルが原因だった」)。

続く慶長の役では、蔚山城籠城戦(慶長2年12月22日〜3年正月4日)が起きました。清正や浅野幸長らは明・朝鮮連合軍約6万に包囲され、食料も水も尽きる中で耐え、毛利秀元・黒田長政らの来援で撃退したとされています(コトバンク「蔚山の戦い」)。このとき籠城を共にした浅野幸長と、来援して撃退に加わった黒田長政は、翌年の七将事件でも清正と行動を共にしています。

加藤清正はなぜ徳川方についたのか(武断派と文治派の対立構図)

慶長4年の「七将事件」と家康の台頭

慶長4年(1599年)閏3月、五大老(徳川家康・前田利家ら有力大名5人による豊臣政権の合議機関)の筆頭格だった前田利家が亡くなると、清正ら武将と石田三成の対立が表面化しました。清正とともに名が挙がるのは、福島正則・黒田長政・藤堂高虎・蜂須賀家政・細川忠興・浅野幸長です。

この騒動は徳川家康の調停で収まり、三成は五奉行(豊臣政権の実務を担った奉行職5人による合議制)の職務を退いて居城の佐和山城で隠居することになったと考えられています(笠谷和比古「豊臣七将の石田三成襲撃事件」CiNii Research)。一般に「七将襲撃事件」と呼ばれますが、実際に武力で襲ったのかどうか、参加者が本当に7人だったのかは研究者の間で見解が分かれています(後述の「諸説・論争点」参照)。

いずれにしても、豊臣政権内部の争いを家康が調停する形で決着した点は押さえておきたいところです。政権の重しだった利家の死と、家康の存在感の高まりが同時に起きた出来事でした。

関ヶ原では九州で東軍方として動いた

関ヶ原合戦(慶長5年9月15日、1600年)の直前、清正は薩摩の内紛「庄内の乱」で伊集院忠真を支援した疑いを持たれていたとされます。つまり、清正と家康の関係は必ずしも良好ではなかったと考えられています(Yahoo!ニュース エキスパート「関ヶ原合戦前、意外にも加藤清正と徳川家康の関係は冷めていた?」)。

それでも清正は東軍方として、九州で小西行長ら西軍勢力の攻略にあたりました。関ヶ原の本戦には自ら参陣していません。朝鮮出兵以来の相手である行長と九州で向き合う位置にあったことも、清正の選択を考えるうえで見逃せない点です。

戦後の論功行賞で、清正は改易された小西行長の旧領(肥後南半国)を得て、肥後一国の太守になったとされています(石高は約52万石とされることが多いものの、54万石とする資料もあり、加増分の数え方が資料によって異なるためとみられます)。

熊本入国後、清正は次の河川の治水や新田開発を進めました(国土交通省九州地方整備局「加藤清正公の治水」)。

  • 白川・緑川・菊池川・球磨川の治水
  • 有明海・不知火海の干拓と新田開発

これらの事業により、肥後平野の農業基盤が築かれたと評価されています。

史実と通説・ドラマの違い

清正と三成、家康をめぐっては、史実として広まっているものの、実際には後世に生まれた話が少なくありません。ここでは代表的なものを確度ごとに整理します。まず全体像を一覧にすると、次のとおりです。

広く知られた話 実際の位置づけ
三成が家康の屋敷に逃げ込んで難を逃れた 後世の誤伝(同時代史料の裏付けなし)
二条城会見で清正が「賊があれば蹴殺す」と語った 明治期の逸話集が典拠で、同時代史料の裏付けなし
会見の饗応で出された毒饅頭が清正の死因(毒饅頭説) 後世の創作。同時代に近い記録は熱病による病死とする
二条城会見で清正が秀頼に同行した 史実(複数の解説で共有される通説)

以下、それぞれの経緯を見ていきます。

「三成が家康の屋敷に逃げ込んだ」は後世の誤伝とされる

七将事件の際、追われた三成が家康の屋敷に逃げ込んで難を逃れた、という話は広く知られています。しかしこれは後世に形成された逸話で、笠谷和比古氏が2000年の論文で誤りと指摘しています。同時代史料の裏付けがないため、史実として扱うことはできません。

二条城会見で秀頼に同行した清正

慶長16年(1611年)3月28日、家康と豊臣秀頼が二条城で会見した際、清正は浅野幸長とともに秀頼に同行したとされています(国立公文書館「二条城会見」)。東軍方として戦った後も、清正は豊臣家との関わりを持ち続けていたことになります。

会見の場で清正が武備を整え、「賊があれば蹴殺す」と語ったという話も知られています。ただしこれは明治期の逸話集『名将言行録』(岡谷繁実著)に由来するもので、同時代史料での裏付けは確認されていません。

「毒饅頭説」は後世の創作

清正は二条城会見の直後、肥後への帰路の船中で発病し、同年6月24日(1611年8月2日)に亡くなりました。会見の饗応で毒を仕込んだ饅頭が出され、清正らが中毒死したという「毒饅頭説」がありますが、これは随筆『十竹斎筆記』や浄瑠璃『八陣守護城』、歌舞伎『清正誠忠録』に由来するもので、同時代史料の裏付けはありません。

『清正記』など同時代に近い記録は、熱病による病死としています。渡邊大門氏も死因をめぐる3つの説を比べたうえで、次のように述べています(Yahoo!ニュース エキスパート「加藤清正が亡くなった原因は毒饅頭か?」)。

「①腎虚説、③毒饅頭説は荒唐無稽で疑わしく、②熱病説あたりが妥当ではないか」

ドラマの清正像と史実の距離

大河ドラマ「豊臣兄弟!」をきっかけに、清正や三成に関心を持った方も多いでしょう。ドラマは創作を含む作品で、人物の関係はわかりやすく描かれることがあります。

史実の清正は、三成と対立して東軍方についた一方、晩年には秀頼に同行して二条城会見に臨んでいます。「反三成・親家康」という一本の線だけでとらえず、ドラマと史実を切り分けて楽しむと、人物像がより立体的に見えてきます。

諸説・論争点

七将事件については、研究者の間で大きく2つの論点があります。どちらも決着がついているわけではないため、両方の説を並べて紹介します(白峰説・水野説の紹介は歴史街道「石田三成襲撃事件」で襲撃は起きていない?による)。

論点1: 武力による襲撃か、政治的な訴訟か

説 内容 主な論者・典拠
武力襲撃説(従来の通説) 七将が武装して三成を討とうとし、身の危険を感じた三成が逃れたとする理解。江戸期以来広く定着し、一般向けの歴史書の多くがこの前提で書かれている 通説として流布(特定の学術論文に基づくものではない)
政治的訴訟説 『言経卿記』慶長四年閏三月七日条など同時代史料を精査すると、武装襲撃ではなく、三成に政治的責任を負わせるための「訴訟」だったとする。北政所の仲裁を経て三成が引退に追い込まれたと論じる 白峰旬(別府大学教授)『史学論叢』48号(2018年)

論点2: 対立軸は「武断派対三成」か「徳川方対反徳川方」か

説 内容 主な論者・典拠
武断派対三成説(従来の通説) 朝鮮出兵時の戦功評価や講和方針をめぐる確執を背景に、清正ら武断派の武将が三成を排斥しようとした対立と理解する。清正自身の経緯を見る限り、この説明には一定の説得力がある 通説として流布(特定の学術論文に基づくものではない)
徳川方対反徳川方説 七将のうち細川忠興と福島正則は朝鮮出兵時の確執に直接関わっていないと指摘。「武断派対三成」の図式では全員の行動を説明できず、実際の対立軸は徳川方と反徳川方の勢力の間にあったと論じる 水野伍貴「前田利家の死と石田三成襲撃事件」『政治経済史学』555号(2013年)

なお、事件に加わった武将の人数も確定していません。通説では7人ですが、『義演准后日記』の記述からは10人とも解釈できるという指摘があります。

ゆかりの地・史跡

清正の足跡をたどるなら、熊本が中心になります。主な史跡は次のとおりです。

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まとめ

加藤清正が徳川方についた背景には、朝鮮出兵の講和方針をめぐる三成・行長との確執、前田利家の死後に表面化した七将事件、九州で行長と向き合う立場といった複数の要因があったと考えられています。一方で家康との関係は関ヶ原直前まで冷ややかだったとされ、晩年には秀頼に同行して二条城会見に臨みました。

「豊臣家を裏切った武将」という見方は、清正の一面しかとらえていません。史料に基づく事実と、後世の逸話や研究者の論争を分けて読むと、豊臣政権の揺らぎの中で立場を選んだ一人の武将の姿が見えてきます。七将事件の論争をさらに深く知りたい方は、下記の参考文献や、熊本の清正ゆかりの史跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。

参考文献・典拠

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