History

大久保利通はなぜ西郷隆盛と対立したのか|史実を整理する

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結論:大久保利通と西郷隆盛はなぜ対立したのか

大久保利通と西郷隆盛は、同じ鹿児島城下で育った幼なじみであり、討幕運動では手を携えた盟友でした。その2人がなぜ対立し、最後は敵味方に分かれたのか。結論から整理します。

2人の対立が決定的になったのは、明治6年(1873年)の征韓論をめぐる政府内の対立、いわゆる明治六年政変だと考えられています。欧米視察から戻った大久保は「内治の先決」を唱え、西郷を朝鮮へ使節として送る決定に反対しました。

その結果、西郷は参議などの職を辞して政府を去ります。4年後の明治10年(1877年)、西郷は鹿児島の士族に擁されて西南戦争を起こし、2人は政府側と反乱側に分かれることになりました。

ただし、注意したい点が2つあります。1つは、大久保らも朝鮮への強硬策そのものに反対だったわけではなく、違いは「進める時期と手順」にあったとみる事典がある点です(コトバンク「征韓論」日本大百科全書)。

もう1つは、西南戦争で政府軍を指揮したのは山県有朋だという点です。大久保は内務卿(当時の内閣で内政全般を統括した最高位の役職)として政府の中枢から政治的な方針を担う立場にあり、自ら軍を率いたわけではないとされています(コトバンク「西南戦争」)。

大久保利通の肖像写真(明治期撮影、国立国会図書館『近世名士写真』より)

出典: Wikimedia Commons「Toshimichi Okubo 4.jpg」(PD-Japan-oldphoto)

観点 大久保利通 西郷隆盛
出身 薩摩・加治屋町周辺の下級武士(御小姓組) 同じく加治屋町周辺の下級武士(御小姓組)
見出した主君 島津久光(斉彬の異母弟) 島津斉彬
岩倉使節団の時期 副使として欧米を視察 留守政府の中心として国内政治を主導
明治六年政変での立場 内治優先を唱え、西郷の朝鮮派遣に反対 朝鮮への使節として派遣が内定していた
政変後 初代内務卿として財政・地方行政などの権限を握る 参議・陸軍大将・近衛都督を辞任し下野
西南戦争 内務卿(政府中枢。軍の指揮は山県有朋) 鹿児島士族に擁されて進発し、城山で死去

(参議は太政官の最高幹部、陸軍大将は陸軍の最高位の階級、近衛都督は天皇を警護する近衛兵を統率する長です。西郷はこれらの要職をすべて辞し、政府から完全に身を引きました。)

大久保利通と西郷隆盛の関係を年表で見る

まずは2人の歩みを年表で並べます。盟友から決別へ、関係がどの時点で変わったのかが見えてきます。日付は事典類の記述によるもので、元号と西暦を併記しています。

年(元号・西暦) 大久保利通 西郷隆盛 2人の関係
文政13年(1830年) 鹿児島城下高麗町に生まれ、のち加治屋町へ 同じ加治屋町周辺で幼少期を過ごす 幼少期からの交流
慶応2年(1866年) 薩長同盟で中心的役割 薩長同盟で中心的役割 討幕の協力者
慶応3年(1867年) 王政復古を推進 王政復古を推進 討幕の協力者
明治4年(1871年)〜 岩倉使節団の副使として欧米視察 留守政府の中心人物 役割分担
明治6年(1873年) 帰国後、朝鮮派遣に反対。11月に内務卿 参議・陸軍大将・近衛都督を辞任 決裂(明治六年政変)
明治7年(1874年) 佐賀の乱を鎮定、台湾出兵後の対清交渉 政府の外にいる 別々の道へ
明治10年(1877年) 内務卿として政府中枢に 鹿児島士族に擁されて進発、9月に死去 西南戦争で敵味方に
明治11年(1878年) 5月14日、東京・紀尾井町で襲撃され死去 ― ―

幼少期〜討幕運動:加治屋町で育った盟友

大久保利通は文政13年8月10日(旧暦、1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下の高麗町に生まれ、その後加治屋町に移ったとされています(コトバンク「大久保利通」日本大百科全書)。

生家の家格は西郷と同じ「御小姓組」で、下級武士の家でした。2人は幼少期から加治屋町周辺で育ち、交流があったと考えられています。

その後、西郷は藩主の島津斉彬に、大久保は斉彬の異母弟である島津久光に見出されます。大久保は久光のもとで小納戸役(主君の側近く仕える役職)に登用されました。

仕えた相手は違っても、2人は討幕運動で協力しました。慶応2年(1866年)の薩長同盟、慶応3年(1867年)の王政復古で、ともに中心的な役割を担ったとされています。

明治政府発足〜岩倉使節団と留守政府

明治4年(1871年)、大久保は岩倉具視らの遣外使節団(岩倉使節団)に副使として参加し、欧米を視察しました。その間、国内で政治を主導したのは、留守政府の中心人物となった西郷でした。

この時期も2人の連絡は途絶えていません。重要文化財「大久保利通関係資料」には、1872年に大久保がロンドンから西郷に宛てた書簡が含まれています(文化遺産オンライン「大久保利通関係資料」)。

一方で、欧米を視察した大久保と、国内で政治を主導した西郷とでは、置かれた立場が大きく異なりました。この役割分担が、のちの政策判断の違いにつながったと考えることもできます。

明治六年政変(1873年):対立が決定的になった局面

西郷隆盛の肖像画(石川静正筆)

出典: Wikimedia Commons「Saigo Takamori Portrait by Ishikawa Shizumasa.jpg」(PD-Japan, PD-Art-two)

明治6年(1873年)8月、留守政府は西郷を朝鮮への使節として派遣することをいったん内定しました(山口県文書館「西南戦争と山口県」解説)。

ところが9月に帰国した岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは、国内の整備を優先すべきだとして強く反対します。10月24日の閣議で派遣の決定は無期延期となりました。

西郷は参議・陸軍大将・近衛都督を辞任し、翌25日には板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平も政府を去りました。この一連の出来事が明治六年政変と呼ばれています。

注目したいのは、日本大百科全書が「大久保らも朝鮮侵略に反対ではなかった」と注記している点です。大久保が反対したのは方針そのものより、内政を固める前に踏み出すという時期と手順だった、という読み方です。

政変後の大久保:内務卿として権限を集める

政変後の明治6年(1873年)11月、大久保は内務省を新設して初代内務卿に就きました。参議・大蔵卿も兼ね、財政・殖産興業・地方行政にわたる権限を握ったとされています。

時期 大久保の動き 読み取れること
明治6年(1873年)11月 内務省を新設し初代内務卿に 内治優先の方針を自ら担う体制づくり
明治7年(1874年) 佐賀の乱の鎮定にあたる 不平士族の反乱に政府として対処
明治7年(1874年) 台湾出兵の処理で北京談判に全権として臨む 対外的な強硬策を全面的に否定してはいない

台湾出兵の処理を自ら担ったことは、「征韓論に反対した大久保=外征に反対」という単純な図式に収まらない事実です。内治優先は、外交を放棄することとは別の考え方だったとみるのが自然でしょう。

西南戦争(1877年)と大久保の死(1878年)

西南戦争は明治10年(1877年)2月15日、鹿児島の士族が西郷を擁して進発(武装して上京)したことで始まりました。9月24日の鹿児島城山への総攻撃で薩軍は壊滅し、西郷も死去したとされています(コトバンク「西南戦争」)。

開戦の直接のきっかけについては、鹿児島側に不穏な動きがあったことが挙げられます。ただ、今回確認した公的機関や学術資料では日付や経過を直接確かめられなかったため、本記事では詳細を断定しません。

この間、内務卿の大久保は鹿児島県政の改革を督促する立場にありましたが、現地では改革が進まなかったとされています。軍事的な鎮圧の指揮を執ったのは山県有朋です。

翌明治11年(1878年)5月14日、大久保は東京・麹町区紀尾井町清水谷で、石川県士族の島田一郎ら6名に襲撃され死去しました。西郷の死から1年足らずのことでした。

史実と通説の違い

大久保と西郷の対立は、「武力征韓を唱えた西郷と、それを抑えた内治派の大久保」という構図で語られがちです。しかし事典類を読み比べると、この構図にはいくつか注意が必要です。ここではまず、広く知られた通説と、事典の記述からおおむね一致して確認できる史実とのズレを整理します。

よくある通説 事典・資料から言えること
西郷は武力による征韓を主張した 事典によって「出兵を主張」とも「交渉による修交を求めた」とも記され、評価が割れている
大久保は朝鮮への強硬策に反対した 日本大百科全書は「大久保らも朝鮮侵略に反対ではなかった」と注記し、違いを時期・手順に置く
大久保が西南戦争を鎮圧した 軍の指揮は山県有朋。大久保は内務卿として政府中枢にいた
大久保は外征に消極的だった 政変の翌年、台湾出兵の処理で対清交渉の全権を務めている

特に西南戦争については、「政治的な方針決定」と「軍事指揮」を分けて考えることが大切です。ブリタニカ国際大百科事典は「山県有朋の指揮する政府軍が平定した」と記しています(コトバンク「西南戦争」)。

諸説・論争点

前の章で見た「通説と史実の違い」は、事典の間でおおむね一致している内容でした。一方、ここで扱うのは、事典や研究者の間でも今なお見解が分かれている、決着のついていない論点です。代表的な2つを、どちらか一方に寄せずに紹介します。

西郷の遣韓構想は「武力征韓」か「使節派遣(遣韓)」か

この論点には、大きく「出兵説」と「交渉説」の2つの立場があります。

出兵説は、西郷が板垣退助らとともに、朝鮮への武力行使を伴う強硬策を主導したとする見方です。

板垣らが即時出兵を求め、西郷もその中心人物として扱われてきました(コトバンク「征韓論」)。

交渉説は、西郷自身はまず自ら使節として朝鮮へ渡り、交渉による解決を図ろうとしたとする見方です。

当時から「即時出兵」と「まず使節派遣による交渉から」という2つの主張があったとされています(同項目の記述より)。

この論点に関連して、大久保は西郷の遣韓そのものに強く反対していたわけではない、という見方を示す研究者もいます。関心のある方は、政変を専門に扱った毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書)などの研究書に当たってみてください。

征韓論論争の本質は「政策論争」か「権力闘争」か

もう1つの論点は、政変そのものの性格です。こちらも「政策論争説」と「権力闘争説」の2つの立場があります。

政策論争説は、征韓論問題を朝鮮への外交方針をめぐる政策論争として位置づける見方です(ジャパンナレッジで公開されている国史大辞典の項目)。

権力闘争説は、留守政府と岩倉使節団の帰国組との主導権争いという側面を重く見る見方です。

大阪大学の博士論文要旨は、従来の研究が「政策や政権を巡る『権力争い』に焦点を当てる傾向があった」と整理しています(張竜傑、1996年)。

政策の違いと権力関係のどちらを重く見るかで、大久保と西郷の対立の描かれ方も変わってきます。

ゆかりの地・史跡

2人の関係をたどるなら、生まれ育った鹿児島と、大久保が最期を迎えた東京を訪ねるのがわかりやすいでしょう。施設の開館時間や公開状況は変わることがあるため、訪問前に公式情報を確認してください。

鹿児島市加治屋町周辺(2人が育った場所)

大久保は高麗町に生まれ、その後加治屋町に移りました。西郷とはこの城下の一角で幼少期を過ごしたと考えられています。2人の出発点を実感できる場所です。

また、鹿児島県立歴史・美術センター黎明館は、国立歴史民俗博物館とともに重要文化財「大久保利通関係資料」(計1,650点、2004年6月8日指定)を分蔵しています。

この資料には、先に触れたロンドンからの西郷宛て書簡も含まれます。展示の有無は時期によって異なるため(2026年10月8日時点)、訪問前に各館の公式サイトで最新情報を確認してください。

東京・清水谷公園付近(大久保最期の地)

大久保が襲撃された麹町区紀尾井町清水谷は、現在の千代田区清水谷公園付近にあたります。東京にいながら、明治政府の中枢を担った人物の最期をしのべる場所です。

まとめ

大久保利通と西郷隆盛の対立は、個人的な不仲だけで説明できるものではありません。

明治6年(1873年)の明治六年政変で、国内の整備を先にすべきだとする大久保と、朝鮮への使節派遣が内定していた西郷とで、政府の進め方が分かれたことが出発点だと考えられています。

ただし、西郷の構想が「出兵」だったのか「交渉のための使節派遣」だったのか、政変の本質が政策論争か権力闘争かについては、今も見方が分かれています。

また西南戦争の軍事指揮は山県有朋が執っており、大久保は内務卿として政府中枢にいた立場でした。

2人の関係をもっと深く知りたい方は、まず下の典拠にあるコトバンクの事典項目を読み比べてみてください。同じ出来事でも事典ごとに書き方が違うことがわかり、史実を自分の目で確かめる面白さを味わえるはずです。

もっと深く知りたい方へ

事典の記述だけでは物足りないという方には、大久保利通と明治六年政変をより専門的に掘り下げた書籍もおすすめです。

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参考文献・典拠

本文で使った出典の一覧です(確認日:2026年10月8日)。

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