明治15年(1882年)に出版された錦絵「尾州桶狭間合戦」(歌川豊宣筆、3枚続)
History

桶狭間の戦いは本当に奇襲だったのか|『信長公記』から史実を整理する

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「桶狭間の戦い」と聞くと、少ない兵の織田信長が豪雨にまぎれて迂回し、今川義元の本陣を背後から突いた――そんな奇襲の物語を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

ところが近年、この奇襲のイメージは見直されています。では、当時の記録には実際に何が書かれているのでしょうか。

本記事では、太田牛一の『信長公記』の記述、明治期の戦史の解釈、1982年以降の研究の3つを分けて整理します。史料に書かれていることと後世の解釈を区別しながら、順に確かめていきましょう。

結論:桶狭間の戦いは「奇襲」だったのか

明治15年(1882年)に出版された錦絵「尾州桶狭間合戦」(歌川豊宣筆、3枚続)

出典: 尾州桶狭間合戦(Wikimedia Commons)

先に結論を言うと、桶狭間の戦いを「信長が計画的に迂回し、義元の本陣を奇襲した戦い」と断定できる根拠は、『信長公記』からは見つけにくいと考えられています。

『信長公記』によれば、信長は鷲津砦・丸根砦が今川方に攻撃されたという知らせを確かめてから清洲城を出ています。前もって練った奇襲というより、戦況を受けての出陣だったと読む見方があります。

歴史研究者の渡邊大門氏は、迂回奇襲説の根拠となる史料は信憑性が低く、いまは正面攻撃説を支持する研究者が多いと述べています(PRESIDENT Online)。

一方で、奇襲のイメージは江戸時代の軍記物(合戦を物語として描いた読み物)や、明治の陸軍参謀本部がまとめた戦史を通じて広まったとされます。私たちが知る通説は、後の時代の解釈によって形づくられた面が大きいのです。

本記事の読み方:史料と後世の解釈を分けて整理する

ここからは、合戦の経過、奇襲説が生まれた経緯、近年の研究の順にたどります。読み進めるときは、見出しに添えた年代と史料名に注目してください。

同じ「信長記」でも、太田牛一の『信長公記』と、江戸初期に小瀬甫庵が書いた軍記物『信長記』は別の書物です。この区別を意識しながら読むと、どの記述が一次史料で、どこからが後世の脚色なのかが見えやすくなります。

桶狭間の戦いの経過を時系列で整理する

桶狭間の戦いは、永禄3年(1560年)5月19日(旧暦)に尾張国の桶狭間で、織田信長が今川義元を討ち取った戦いです(PRESIDENT Online、tabi-mag.jp)。

以下の日付はすべて旧暦です。主に『信長公記』の記述に沿って流れをまとめると、次のようになります。

日付(永禄3年・旧暦) 出来事 典拠
5月12日 今川義元が駿府を出陣 『信長公記』
5月18日 義元が沓掛城に入る 『信長公記』
5月19日早暁 今川方が織田方の鷲津砦・丸根砦を攻め落とす 『信長公記』
5月19日 砦が攻撃されたとの知らせを確かめた信長が清洲城を出陣 『信長公記』
5月19日 田楽狭間で休んでいた義元を信長が討ち取る 『信長公記』

今川義元の出陣から沓掛城入城まで(5月12日〜18日)

今川義元を描いた浮世絵「太平記英勇伝三:今川治部大輔義元」(歌川芳幾筆、慶応3年=1867年)

出典: 今川義元(Wikimedia Commons)

『信長公記』によれば、義元は5月12日に駿府を出陣し、6日後の18日に沓掛城へ入りました(サライ.jp)。

このときの兵力は「2万5千」「2万前後」など、記事によって数字がまちまちです。これらの数字は、『信長公記』本文の記述と後代の研究者による推計が混在して紹介されており、どの数字がどちらに基づくのかを本記事では一つに絞り切れませんでした。

『信長公記』の兵数の記述自体にも誇張があるのではと研究者の間で議論があるため、本記事では具体的な人数を断定しません。

鷲津・丸根両砦の陥落と信長の出陣(5月19日早暁)

織田信長像(部分、長興寺蔵、狩野宗秀筆、天正11年=1583年)

出典: 織田信長像(Wikimedia Commons)

19日の早暁、今川方は織田方の鷲津砦と丸根砦を攻め落としました。『信長公記』によれば、信長は両砦が攻撃されたという知らせを確かめたうえで清洲城を出ています。

同書は、そのとき信長に従ったのは小姓衆(信長の身近に仕える側近の武士)6騎、雑兵(身分の低い兵士)200ほどだったと記します。

この人数は清洲城を出陣した時点のものです。前線へ向かう途中で兵力がどう推移したかまでは、史料によって幅があるため本記事では踏み込みません。

ただし、この書きぶりから、念入りに準備した奇襲ではなく、戦況をつかんだうえでの出陣だったとする見方があります。

田楽狭間での義元討死

『信長公記』によれば、砦を落とした知らせを受けた義元は、田楽狭間で人馬を休ませていました。信長はこの義元を討ち取り、合戦は織田方の勝利に終わります。

なお、義元が討たれた場所がどこなのかは、今もはっきり決まっていないとされます。この点は後半の「ゆかりの地・史跡」で取り上げます。

「奇襲」という通説はどこから来たのか

では、迂回して奇襲したという話はどこから来たのでしょうか。たどっていくと、江戸時代と明治時代という2つの段階が見えてきます。

明治期の錦絵「今川義元 桶狭間大合戰之圖」(梧斎年英=右田俊英筆、3枚揃)

出典: 今川義元 桶狭間大合戰之圖(Wikimedia Commons)

江戸期の軍記物・頼山陽の「奇襲戦」観(小瀬甫庵『信長記』)

桶狭間を奇襲とみる見方は、明治より前からありました。江戸時代の儒学者・頼山陽は、桶狭間を代表的な奇襲戦の一つに数えていたとされます(アゴラ)。

雨の中で迂回して奇襲する場面は、江戸初期に小瀬甫庵が書いた軍記物『信長記』に由来するとされています。題名は似ていますが、太田牛一の『信長公記』とは別の書物なので、区別して読む必要があります。

明治32年『日本戦史・桶狭間役』と徳富蘇峰による普及

迂回奇襲説の直接の典拠は、明治32年(1899年)に大日本帝国陸軍参謀本部が編纂した戦史研究書『日本戦史・桶狭間役』とされています。

さらに、徳富蘇峰が『近世日本国民史』でこれに依拠して桶狭間合戦を描いたことで、迂回奇襲説が広く知られるようになったと考えられています(アゴラ)。

迂回奇襲説を信長の天才的作戦として世間に広めたのは、参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』に全面的に依拠して桶狭間合戦を活き活きと叙述した徳富蘇峰の『近世日本国民史 織田氏時代前篇』である
――アゴラ

史料から見える「奇襲ではなかった」とする見方

織田信長像(部分、長興寺蔵、狩野宗秀筆、天正11年=1583年)

出典: 織田信長像(Wikimedia Commons)

明治以来の通説に対して、『信長公記』を読み直す研究が出てきました。ここでは、その代表とされる研究と、その根拠になった記述を見ていきます。

藤本正行の正面攻撃説(昭和57年=1982年)

昭和57年(1982年)、歴史研究家の藤本正行が『信長公記』を読み直し、信長は迂回して奇襲したのではなく、中島砦から今川軍の前衛へ正面から攻めたとする説を発表したと紹介されています(PRESIDENT Online)。

この研究は、のちに『信長の戦争 「信長公記」に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫)に収められました(講談社)。

信長が砦攻撃を確認してから出陣している点(『信長公記』の記述)

正面攻撃説の柱は、『信長公記』が信長は中島砦へ向かったとはっきり書いていて、迂回したという記述がない点です。

先に見たとおり、信長の出陣は砦が攻撃されたという知らせを確かめた後です。知らせを受けて動き、そのまま前線の砦へ進んだという流れは、奇襲の物語とはかなり違った姿を浮かび上がらせます。

奇襲説の根拠となる史料の信憑性は低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い
――渡邊大門氏(PRESIDENT Online)

この見方は藤本正行だけのものではありません。渡邊大門氏も同じ『信長公記』の記述を踏まえて、正面攻撃説を支持する研究者が多いと述べています。

異なる研究者が同じ一次史料の読み直しから同様の結論に至っている点が、正面攻撃説の説得力を支えています。

諸説・論争点:信長の勝因は迂回奇襲か正面攻撃か

信長が勝った理由については、迂回奇襲説と正面攻撃説の2つがあります。それぞれの中身と論拠は次のとおりです(アゴラ、PRESIDENT Online)。

明治期の錦絵「今川義元 桶狭間大合戰之圖」(梧斎年英=右田俊英筆、3枚揃)

出典: 今川義元 桶狭間大合戰之圖(Wikimedia Commons)

観点 迂回奇襲説 正面攻撃説
信長の動き 善照寺砦から北東へ迂回し、休んでいた今川本陣を側面・背後から突いた 中島砦を出て、今川軍の前衛へ正面から攻めた
主な論拠 陸軍参謀本部編『日本戦史・桶狭間役』(明治32年=1899年) 『信長公記』(中島砦へ向かったと明記し、迂回の記述はない)
説の源流・提唱者 江戸初期の小瀬甫庵『信長記』、頼山陽 藤本正行(昭和57年=1982年『異説・桶狭間合戦』)
広まった経路 徳富蘇峰『近世日本国民史』 のちに『信長の戦争』(講談社学術文庫)に収録

迂回奇襲説は、参謀本部の戦史と、それに依拠した徳富蘇峰の叙述を論拠とします。その源は江戸期の小瀬甫庵『信長記』や頼山陽にまでさかのぼるとされます。

正面攻撃説は、『信長公記』の記述そのものを論拠とします。渡邊大門氏は、迂回奇襲説の根拠になる史料は信憑性が低いとして、正面攻撃説を支持する研究者が多いと述べています。

どちらの説も、拠りどころにする史料をはっきり示しています。読み比べるときは「どの史料に、いつ書かれたことか」を意識すると、それぞれの主張の重みを比べやすくなります。

ゆかりの地・史跡

桶狭間の古戦場の正確な位置は、愛知県豊明市と名古屋市緑区のあいだで決まっていないとされ、両市にまたがる一帯が古戦場と呼ばれています(名古屋観光情報、Aichi Now)。

今川義元を描いた浮世絵「太平記英勇伝三:今川治部大輔義元」(歌川芳幾筆、慶応3年=1867年)

出典: 今川義元(Wikimedia Commons)

名称 所在地 位置づけ
桶狭間古戦場伝説地 附 戦人塚 愛知県豊明市栄町南舘 国指定史跡
桶狭間古戦場公園 名古屋市緑区 今川義元最期の地と伝わる。平成22年(2010年)に整備された公園

桶狭間古戦場伝説地(豊明市・国指定史跡)

豊明市栄町南舘の「桶狭間古戦場伝説地 附 戦人塚」は、文化庁の国指定文化財等データベースに史跡として載っています(文化遺産オンライン)。

国の史跡に指定されているのは、豊明市側のこの伝説地です。見学の時間や交通手段は、出かける前に豊明市などの公式案内で最新の情報を確かめてください。

桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)

名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」は、今川義元最期の地と伝わる場所です。合戦から450年にあたる平成22年(2010年)に整備されました(名古屋観光情報)。

2つの場所を両方訪ねて、地形や距離を自分の目で比べてみるのも、史跡めぐりならではの楽しみ方です。

まとめ

桶狭間の戦いは本当に奇襲だったのか。この記事で整理したポイントは次のとおりです。

  • 『信長公記』によれば、信長は鷲津砦・丸根砦が攻撃されたという知らせを確かめてから出陣しており、迂回の記述はない
  • 迂回奇襲説は江戸期の小瀬甫庵『信長記』や頼山陽を源流とし、明治32年(1899年)の『日本戦史・桶狭間役』と徳富蘇峰によって広まったとされる
  • 昭和57年(1982年)の藤本正行の研究以降、正面攻撃説を支持する研究者が多いとされる

通説を読むときは、「その話はどの史料の、いつの記述が元なのか」を確かめるのがいちばんの近道です。もっと深く知りたい方は、藤本正行『信長の戦争』で『信長公記』の読み方に触れてみてください。

現地の空気を感じたい方は、豊明市の国指定史跡と名古屋市緑区の古戦場公園の両方を訪ねてみるのもおすすめです。

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参考文献・典拠

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