伝足利義政像(東京国立博物館所蔵)
History

応仁の乱はなぜ起きたのか|将軍継嗣問題と守護大名の対立から史実を整理する

応仁の乱はなぜ起きたのか

応仁の乱は、応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで11年間続いた室町時代の内乱です。

きっかけは一つではありません。将軍家の継嗣問題、畠山家・斯波家の家督争い、細川勝元と山名宗全の権力対立という、3つの対立が重なって起きたと考えられています。

この記事では、それぞれの対立がどう絡み合って戦乱に発展したのかを、史実に基づいて順番に整理します。乱の「元凶」とされがちな日野富子についても、史料から見た実際のところを確認します。

対立の構造を整理すると、次のようになります。

対立の層 対立した相手 内容
将軍継嗣問題 足利義視 vs 足利義尚 将軍足利義政の後継者を誰にするか
畠山家の家督争い 畠山政長 vs 畠山義就 畠山家の家督を誰が継ぐか
斯波家の家督争い 斯波義敏 vs 斯波義廉 斯波家の家督を誰が継ぐか
守護大名の権力対立 細川勝元(東軍) vs 山名宗全(西軍) 幕府内の実権争い

伝足利義政像(東京国立博物館所蔵)

出典: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

応仁の乱までの流れを年表で整理

ここからは、それぞれの対立がどう重なっていったのかを、年表に沿って見ていきます。

将軍継嗣問題 ── 足利義視と足利義尚

室町幕府8代将軍・足利義政には当初子がいなかったため、弟の足利義視を養子に迎え、次の将軍にすると決めていました。

ところが寛正6年(1465年)、義政と妻・日野富子との間に男子・義尚が誕生します。富子は我が子を将軍にしたいと考え、将軍家の後継者は義視派と義尚派に分裂しました。

畠山家・斯波家の家督争い

将軍継嗣問題に加え、有力な守護大名家でも後継者争いが起きていました。畠山家では畠山政長と畠山義就が家督を争い、それぞれ義視派・義尚派と結びつきます。

斯波家でも同様に家督争いがあり、文正元年(1466年)9月には、将軍義政が斯波家の家督を義廉から義敏に交代させる決定を下しています(前年の寛正6年に義尚が誕生した直後のことでした)。

こうした複数の家の内紛が、将軍継嗣問題と絡み合って対立を広げていきました。義視派・義尚派という将軍家の分裂に、畠山・斯波それぞれの家督争いが乗る形で、対立の構図は一段と複雑になっていきます。

発端となった「御霊合戦」

対立の火種がついたのは、文正2年(1467年)1月18日のことです。将軍の命で家督を失った畠山政長が、京都の上御霊神社の境内に陣を構えたところを、畠山義就の軍勢が襲撃しました。

「御霊合戦」と呼ばれるこの戦いで、政長は社殿に火を放って敗走し、細川勝元の屋敷へ逃げ込んだと伝えられています。

この御霊合戦に続き、応仁元年(1467年)5月26日には京都市街での戦闘が本格化し、東軍が一色義直の邸宅を包囲するなど戦火が拡大しました。同年秋には山名側・大内側の大軍が入京し、西軍が勢いを盛り返しています。

文明4年(1472年)正月には東軍・細川勝元と西軍・山名宗全の間で和睦交渉が始まりますが、戦いはすぐには収まりませんでした。

文明5年(1473年)に足利義尚が9歳で第9代将軍に就任し、同じ年に両軍の大将だった山名宗全と細川勝元が相次いで世を去ります。そして文明9年(1477年)、11年に及んだ戦乱はようやく終結しました。

この一連の流れの中心にいたのが、義尚の母であり義尚派の中心人物だった日野富子です。富子については、乱の「元凶」とする通説が広く流布しているため、次の章で史実と通説の違いを整理します。

京都の神社・鳥居(イメージ)

出典: Unsplash(Chantal Lim) / 写真は京都の神社のイメージです

史実と通説の違い ── 日野富子は本当に「悪女」だったのか

応仁の乱を語る際、日野富子を乱の元凶とする「悪女」のイメージが広く流布しています。義尚の将軍継承を図って山名宗全と結び、対立を引き起こしたという筋立てで、軍記物『応仁記』の記述を踏襲するものです。

しかし、この富子像には史料上の疑問が指摘されています。学習院大学の家永遵嗣教授によれば、同時代の公家・僧侶の日記には、富子を乱の原因とする記述がまったく見られません。

そのため『応仁記』が描く富子像は、後世に作られたイメージである可能性が強いと指摘されています(現代ビジネスの紹介記事)。

歴史学者の呉座勇一氏も、富子を悪女とする見方に異を唱えています。通説と史料の間にずれがあることは、応仁の乱の原因を考えるうえで押さえておきたいポイントです。

一方で、富子が義尚の将軍継承を図って山名宗全を後見役としたこと自体は、辞典類にも広く記述されており、継嗣問題への関与そのものは否定されていません。

「乱を引き起こした元凶」という評価と、「継嗣争いの当事者だった」という事実は、分けて理解する必要があります。富子を単純な悪女として描く見方は、史料から見ると見直しの余地がある通説だと言えるでしょう。

諸説・論争点 ── 乱の主因は何か

応仁の乱の主因については、研究者・事典の間でも整理の仕方が分かれています。

一つは、将軍継嗣問題(義視派と義尚派の分裂)が発端であり、細川・山名の対立はそこに付随したという見方です。

もう一つは、細川勝元と山名宗全という二人の実力者の権力対立が先にあり、将軍継嗣問題や畠山・斯波の家督争いは、その対立に利用された側面があるという見方です。

どちらの見方を取るかによって、乱の性格の説明は変わってきます。どちらが決定的に正しいとは言い切れず、両方の視点を押さえておくことが理解の近道です。

ゆかりの地・史跡を訪ねる

乱の発端となった京都・上御霊神社には、鳥居前に「応仁の乱勃発地」の石碑が立っています。最寄りは地下鉄烏丸線の鞍馬口駅から徒歩5分ほどです(上御霊神社の史跡紹介)。

足利義満が創建した相国寺も、応仁の乱当時は境内が上御霊神社の周辺まで広がっていました。

度重なる戦乱・火災で焼失と再建を繰り返した寺院で、足利義政の墓は相国寺の門前にあります(相国寺の解説)。

まとめ

応仁の乱は、将軍家の継嗣問題、畠山家・斯波家の家督争い、細川勝元と山名宗全の権力対立という3つの対立が重なって起きた、11年におよぶ内乱でした。日野富子を単純な「元凶」とする通説には、史料から見ると見直しの余地があります。

乱後、室町幕府の権威は大きく失われ、各地の守護大名・国人による群雄割拠、つまり戦国時代への転換点となりました。

応仁の乱は単純な「誰が悪かったか」の物語ではなく、将軍家と複数の守護大名家の利害が重なり合った末の内乱だったと理解すると、その後の戦国時代の見え方も変わってきます。

乱の発端の地である上御霊神社や相国寺を訪ね、現地で歴史の重みを感じてみるのもおすすめです。

参考文献・典拠

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です