榎本武揚の肖像写真(国立国会図書館「幕末・明治期の日仏交流」展示より。原典は『近世名士写真』、パブリックドメイン)
History

箱館戦争はなぜ起きたのか|会津戦争後、「榎本武揚」ら旧幕府軍が蝦夷地へ渡った経緯を史実で整理する

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会津藩が降伏したあとも、戊辰戦争はすぐには終わりませんでした。旧幕府の艦隊と兵は海を渡り、蝦夷地(現在の北海道)の箱館で、さらに半年以上も戦い続けます。

なぜ戦いは北の箱館まで続いたのでしょうか。本記事では、史料で確かめられる事実と、研究者の見方が分かれる点を区別しながら整理します。

結論:箱館戦争はなぜ起きたのか、なぜ戊辰戦争最後の戦いになったのか

箱館戦争は、新政府による徳川家の処遇に不満を持った旧幕府海軍が艦隊ごと脱走し、東北で行き場を失った旧幕府陸軍を収容して蝦夷地を占拠したことから起きた戦いです。

流れを3段階にまとめると、次のとおりです。

  1. 慶応4年8月19日(1868年10月4日)夜、榎本武揚の率いる旧幕府艦隊8隻が品川沖を脱走した
  2. 会津藩など奥羽越列藩同盟(新政府に抵抗した東北・越後の諸藩による同盟)の諸藩が相次いで降伏し、東北の旧幕府陸軍が仙台で艦隊に合流した
  3. 明治元年(1868年)10月に蝦夷地へ上陸し、箱館と五稜郭を拠点とする政権をつくった

本州で新政府に抵抗する勢力が消えたあと、残った旧幕府勢力は箱館に集まった形になります。そのため、明治2年(1869年)5月18日の五稜郭開城をもって、戊辰戦争は終わったとされています(コトバンク「箱館戦争」)。

榎本武揚の肖像写真(国立国会図書館「幕末・明治期の日仏交流」展示より。原典は『近世名士写真』、パブリックドメイン)

箱館戦争に至る経緯を年表で整理する

日付は旧暦(元号)で示し、必要に応じて西暦を併記しています。慶応4年と明治元年は同じ年を指します。「確度」の列は、史料で直接確かめられる事実か、研究上の通説かを示します。

時期 出来事 確度
慶応4年8月19日(1868年10月4日) 榎本艦隊8隻が品川沖を脱走 一次史料
慶応4年9月4日(1868年) 米沢藩が降伏 研究通説
慶応4年9月15日(1868年) 仙台藩が降伏 研究通説
慶応4年9月22日(1868年) 会津藩が降伏 研究通説
慶応4年9月24日(1868年) 庄内藩が降伏 研究通説
明治元年(1868年)10月 蝦夷地に上陸して箱館を占拠し、松前・江差も制圧 研究通説
明治元年(1868年)12月 士官の入札で榎本武揚が総裁に選ばれる 研究通説
明治元年(1868年)冬 主力艦・開陽丸が江差沖で座礁・沈没 研究通説
明治2年3月25日(1869年5月6日) 宮古湾で新政府軍の甲鉄艦の奪取を試み、失敗 研究通説
明治2年5月11日(1869年6月20日) 新政府軍が箱館総攻撃を開始 一次史料
明治2年5月15日(1869年) 弁天台場が降伏 一次史料
明治2年5月18日(1869年) 五稜郭が開城 一次史料

榎本武揚の肖像写真(国立国会図書館「幕末・明治期の日仏交流」展示より。原典は『近世名士写真』、パブリックドメイン)

品川沖の脱走と仙台での合流

旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、開陽丸を含む8隻を率いて品川沖を離れました。背景にあったのは、新政府による徳川家の処遇への不満です。

この経緯は、国立公文書館が『公文別録』所収の「榎本釜次郎脱艦一件書」として紹介しています(国立公文書館 デジタル展示)。艦数と日付は、独立した解説記事の記述とも一致します。

脱走の時点では、東北ではまだ奥羽越列藩同盟が戦っていました。しかし9月に入ると米沢・仙台・会津・庄内の各藩が降伏し、同盟は崩壊したと考えられています。

東北で抵抗を続けていた大鳥圭介らの旧幕府陸軍は、仙台で榎本艦隊に合流しました。脱走軍は約3000人規模になったとされます(白河市 資料)。

蝦夷地上陸と榎本政権の成立

脱走軍は明治元年10月に蝦夷地へ上陸し、箱館を占拠したうえで松前・江差も制圧したと考えられています。

同年12月には、士官による入札(投票による選出)で榎本武揚が総裁、松平太郎が副総裁に選ばれました。五稜郭を本拠とするこの政権が、後世「蝦夷共和国」と俗称されるものです(箱館戦争の解説)。

旧幕府軍はなぜ蝦夷地を目指したのか

蝦夷地へ渡った目的には、2つの見方があります。1つは新政府からの独立を目指したという見方、もう1つは新政府のもとで徳川家臣団による蝦夷地の開拓と北方警備を目指したという見方です。

ただし本記事では、どちらについても研究者や研究機関が署名した典拠を確認できていません。いずれも観光系サイトや個人サイトで見られる説明にとどまり、学界で定説になっているとは言えない状況です。

目的は断定せず、両方の可能性を念頭に置いて経緯を読むのが安全です。

五稜郭の戦いの史実|箱館戦争の展開

『公文別録』所収「榎本釜次郎脱艦一件書」の写真(国立公文書館 デジタル展示より)

五稜郭はもともと箱館奉行所の城郭

五稜郭は、箱館港の開港を受けて計画された、日本初の西洋式稜堡城郭と考えられています。稜堡とは、星形に突き出した角の部分から、迫る敵を側面からも射撃できるようにした西洋式の築城法です。

設計は武田斐三郎で、安政4年(1857年)に着工しました。1864年には箱館奉行所が五稜郭の中心部へ移り、北方防衛と対外交渉の拠点になったとされます(nippon.com)。

なお完成年は資料によって差があり、慶応2年(1866年)とするものも、1864年の築城とするものもあります。脱走軍が本拠に選んだのは、幕府自身が築いたこの城郭でした。

開陽丸の沈没で制海権が傾く

旧幕府軍の強みは、開陽丸を主力とする艦隊でした。その開陽丸は明治元年冬、江差沖で座礁して沈没します(北海道新聞)。

主力艦を失った旧幕府軍は制海権(海上の主導権)の優位を手放し、新政府軍の艦隊が優勢になったと考えられています。海を渡ってくる新政府軍を、海上で食い止める力が大きく削がれました。

宮古湾海戦――甲鉄艦奪取の失敗

明治2年3月25日(1869年5月6日)、旧幕府艦隊の回天・蟠龍・高雄は、宮古湾にいた新政府軍の甲鉄艦を奪おうとしました。敵艦に船を横付けして乗り込む、アボルダージュ(接舷攻撃)という戦法です。

しかし悪天候で艦隊が分散し、新政府軍の反撃を受けて作戦は失敗したとされています。制海権を取り戻す試みは、ここで途絶えました。

箱館総攻撃から五稜郭開城まで

新政府軍は明治2年5月11日(1869年6月20日)、箱館への総攻撃を始めました。この日の戦闘のなかで土方歳三が戦死したとされます(tabi-mag。人物の生涯は本記事では扱いません)。

孤立した弁天台場は5月15日に降伏し、箱館奉行の永井玄蕃ら約240名が投降しました。最後まで抵抗した五稜郭も5月18日に開城し、新政府に明け渡されました(tabi-mag「5月18日」)。

降伏後の榎本武揚と旧幕府軍

榎本武揚の肖像写真(国立国会図書館「幕末・明治期の日仏交流」展示より。原典は『近世名士写真』、パブリックドメイン)

五稜郭の開城後、旧幕府軍の首脳は東京へ護送されました。国立国会図書館が所蔵する大鳥圭介の自筆の道中日記には、5月18日の開城から6月29日に千住へ着くまでの記録が残っています(国立国会図書館 電子展示)。

榎本武揚は朝敵(新政府に反逆したとされる者)として投獄されました。しかし、薩摩藩出身で新政府軍の参謀を務めた黒田清隆が赦免に動き、明治5年(1872年)に放免されたと考えられています。

同じ年、榎本は北海道の開拓を担う官庁である開拓使に出仕しました(北海道大学 学術成果コレクション)。敵として戦った相手の尽力で、新政府に迎えられた形です。

史実と通説の違い|「蝦夷共和国」と降伏の錦絵

箱館戦争には、広く知られていても史料の裏付けが弱い話がいくつかあります。代表的なものを整理します。

よく聞く話 史料・研究から言えること
榎本は「蝦夷共和国」を建国した 「共和国」の語は榎本自身の文書に現れないとする研究がある。後世の俗称として扱うのが無難
五稜郭の降伏の場に西郷隆盛がいた 錦絵にはそう描かれるが、実際の受降者は黒田清隆だったとする説明がある(典拠が1つのため留保が必要)
榎本が国際法書を黒田に贈った美談 紀行記事に見える逸話で、一次史料での裏付けは確認できない

「蝦夷共和国」は当時の正式名称ではない

政権の首脳は入札で選ばれましたが、「蝦夷共和国」という呼び名は、榎本自身が残した文書には現れないと指摘されています。英仏の艦長に同行した英国人などが用いた表現に由来する、という見方です(詳しくは次の「諸説・論争点」で扱います)。

降伏の錦絵に描かれた西郷隆盛

『公文別録』所収「榎本釜次郎脱艦一件書」の写真(国立公文書館 デジタル展示より)

早川松山が1877年に描いた錦絵「箱館五稜郭降伏之図」は、降伏の場に西郷隆盛がいる構図です。一方でWikimedia Commonsの解説には、実際の降伏は西郷の到着前に黒田清隆に対して行われた、と書かれています。

この説明は学術文献での確認が取れていません。錦絵は、後年に描かれたイメージとして見るのがよいでしょう。

『万国海律全書』をめぐる逸話

明治2年(1869年)5月、榎本が国際法書『万国海律全書』を黒田清隆に贈り、黒田が酒樽とマグロを返礼したという逸話があります。ただしこれは紀行記事などで紹介される話で、同時代史料の裏付けは確認できていません。

北海道大学の武藤公平氏の研究要旨では、榎本と黒田の関係が後年「美談」として形づくられていった可能性が指摘されています。印象的な話ほど、出どころを確かめて読みたいところです。

諸説・論争点|榎本政権は「共和国」と呼べるのか

榎本武揚の肖像写真(国立国会図書館「幕末・明治期の日仏交流」展示より。原典は『近世名士写真』、パブリックドメイン)

五稜郭に生まれた榎本政権を、実質のある政治的な構想と見るか、後世の呼び名にとどまると見るかで、研究者の評価は分かれています。

論点 説A:実質のある構想 説B:後世の呼称にとどまる
主な論者 三上一夫氏(遺稿論文) 濱口裕介氏
主張 榎本は共和政的な政権を樹立する構想を実際に持っていた。近代化路線のなかの政治的試みとして評価できる 榎本の文書に「共和国」の語はない。学界でこの政権を積極的に共和国と位置づける研究者はほとんどいない
補足 同論文も、構想は結局実現しなかったと評価している 呼称は英国人などの表現に由来する俗称で、過大評価すべきではない

どちらの立場でも、共和国の構想が実現しなかった点は共通しています。違いは、その構想そのものにどこまで実質を認めるかです。原典は三上一夫氏の遺稿(福井県立図書館・文書館)と濱口裕介氏の論文(札幌大学)で読めます。

本記事では、こうした論争を踏まえて「榎本政権」「いわゆる蝦夷共和国」と表記しています。

箱館戦争ゆかりの地・史跡

『公文別録』所収「榎本釜次郎脱艦一件書」の写真(国立公文書館 デジタル展示より)

箱館戦争の舞台は、函館だけでなく道南の沿岸や本州の海にも広がっています。

場所 箱館戦争との関わり
五稜郭(函館) 榎本政権の本拠。明治2年5月18日に開城
弁天台場(箱館) 孤立したのち5月15日に降伏し、約240名が投降
碧血碑(函館市谷地頭町) 旧幕府軍の戦死者約800人を慰霊する碑。明治8年(1875年)建立
江差沖 主力艦・開陽丸が座礁・沈没した海
宮古湾 甲鉄艦の奪取を試みた海戦の舞台

碧血碑は、土方歳三や中島三郎助父子を含む旧幕府軍の戦死者を慰霊する碑です。生き残った榎本武揚や大鳥圭介らの協力を得て建てられたとされます(tabi-mag「碧血碑」)。

戦死者を弔うこの碑が旧敵同士の協力で建てられたことは、箱館戦争が単純な勝者と敗者の物語ではなかったことを示しています。

まとめ

箱館戦争は、徳川家の処遇に不満を持った旧幕府艦隊の脱走と、会津藩などの降伏で行き場を失った旧幕府陸軍の合流が重なって起きた戦いでした。

  • なぜ起きたか: 品川沖を脱走した榎本艦隊が、東北の旧幕府陸軍を収容して蝦夷地を占拠したため
  • どう決着したか: 開陽丸の沈没と宮古湾での作戦失敗で海の優位を失い、明治2年5月18日に五稜郭が開城した
  • なぜ最後の戦いか: 本州の抵抗勢力が消え、残った旧幕府勢力が箱館に集まっていたため
  • 読むときの注意: 「蝦夷共和国」や降伏の錦絵は、史実と後世のイメージを分けて見る

函館を訪れるなら、五稜郭と碧血碑をあわせて巡ると、戦いの始まりと終わりを一続きで感じられます。鳥羽・伏見の戦いから会津戦争へと続く流れも、当サイトの関連記事でたどってみてください。

参考文献・典拠

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