前原一誠の肖像写真(国立国会図書館「近代日本人の肖像」、著作権保護期間満了)
History

「萩の乱」はなぜ起きたのか|前原一誠と不平士族反乱の原因を整理する

明治7年(1874年)の佐賀の乱から2年後、今度は長州の城下町・萩で士族が兵を挙げました。率いたのは、かつて新政府で参議・兵部大輔まで務めた前原一誠です。

政府の中枢にいた人物が、なぜ故郷で反乱の先頭に立ったのでしょうか。本記事では萩の乱の原因と挙兵までの経緯を、事典類の記述をもとに時系列でたどります。

本記事で扱う事実は、いずれも事典などで広く説明されている「研究通説」の水準です。資料によって記述が分かれる点は、そのつど断りを入れています。

結論

萩の乱は、明治9年(1876年)10月に前原一誠ら不平士族が山口県萩で起こした反政府の挙兵とされています(コトバンク「萩の乱」)。

熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱と連動した、明治9年の不平士族反乱の一つに位置づけられています。不平士族とは、明治維新で身分上の特権や収入を失い、新政府に不満を募らせた旧武士層のことです。

萩の乱の原因を一言でまとめるのは難しいものの、事典類の説明からは次の3つの流れが読み取れます。

  • 新政府の方針や兵制改革をめぐって意見が合わず、前原が明治3年(1870年)に兵部大輔を辞して萩へ帰郷したこと
  • 帰郷後、明治7年(1874年)の佐賀の乱では県の依頼で不平士族の説得役を務めるほど、地元士族に影響力を持つ存在だったこと
  • 明治9年10月24日の神風連の乱に呼応し、王土王民制と士族禄制の回復を掲げて同志約300人で蜂起したこと

ただし、前原が当初から武装蜂起を計画していたのか、周囲の急進派に押されて挙兵に至ったのかは、今回確認した資料からは判断できません。この点は後半の「諸説・論争点」で扱います。

ここからは、前原一誠の歩みを年表で確認したうえで、萩の乱がなぜ起きたのかを順に見ていきます。

本文

まずは前原一誠の経歴を年表で押さえ、そのうえで挙兵までの経緯を順にたどります。

前原一誠の生涯と萩の乱に至る経緯(年表)

前原一誠の肖像写真(国立国会図書館「近代日本人の肖像」、著作権保護期間満了)

出典: 国立国会図書館「近代日本人の肖像」前原一誠(著作権保護期間満了)

前原一誠は、長州藩士佐世彦七の長男として天保5年(1834年)に萩で生まれたとされています(コトバンク「前原一誠」)。挙兵までの主な歩みを年表にまとめます。

年 出来事 確度
天保5年(1834年) 長州藩士佐世彦七の長男として萩に生まれる 研究通説
安政4年(1857年) 萩へ戻り松下村塾に入門、吉田松陰に師事 研究通説
戊辰戦争期 越後口総督府の参謀として長岡城攻略に関わる 研究通説
明治2年(1869年) 越後府判事となり、その後参議・兵部大輔を務める 研究通説
明治3年(1870年) 兵部大輔を辞職し、萩へ帰郷 研究通説
明治7年(1874年) 佐賀の乱に際し、山口県令の依頼で不平士族の説得にあたる 研究通説
明治9年(1876年)10月 同志とともに萩で挙兵(萩の乱) 研究通説(日付は資料により差あり)
明治9年(1876年)12月3日 萩で斬首刑に処される 研究通説

前原は安政4年(1857年)に萩へ戻って松下村塾に入門し、吉田松陰に師事したとされています(山口県観光情報サイトの解説)。

戊辰戦争では越後口総督府の参謀として長岡城の攻略に関わり、明治2年(1869年)に越後府判事となりました。その後、参議と兵部大輔を務めたと考えられています。兵部大輔は、軍事を担う兵部省の次官にあたる役職です。

なぜ政府を離れたのか(兵制改革をめぐる意見の相違)

転機は明治3年(1870年)です。前原は新政府の方針や兵制改革をめぐる意見の相違を背景に兵部大輔を辞職し、萩へ帰郷したとされています(山口県観光情報サイトの解説)。

この辞職には、同じ長州出身の木戸孝允との対立があったとも説明されます。事典の要約では、この対立は兵制改革の進め方をめぐるものだったとされています。ただ、どの論点で何を主張し合ったのかを直接示す史料や論文は今回確認できず、事典レベルの要約にとどまります。

そのため「木戸と何をめぐって、どのように争ったのか」を細かく描くことは、本記事では控えます。確実に言えるのは、前原が政府の要職を離れ、故郷の萩へ戻ったという点までです。

なぜ萩で不平士族に頼られる存在になったのか

前原の経歴を並べると、松下村塾の門下、戊辰戦争での参謀、新政府の参議・兵部大輔と、地元の士族から見て重みのある肩書きが続きます。

その前原が政府を去って萩にいたことは、新政府に不満を持つ士族にとって大きな意味を持ったと考えられます。ただしこれは経歴からの推測で、当時の士族の受け止め方を示す史料は確認できていません。

一方で、県の側も前原の影響力を頼りにしていました。明治7年(1874年)の佐賀の乱では、山口県令の依頼を受けて、動揺する不平士族の説得にあたったとされています(コトバンク「前原一誠」)。

つまり前原は、佐賀の乱のときには士族を抑える側に立っていました。その2年後に自ら挙兵した点が、萩の乱を理解するうえでの大きな問いになります。

萩の乱はなぜ起きたのか(動機と挙兵の経緯)

前原らが何を求めて兵を挙げたのか、掲げた要求から確認します。

掲げた要求と大義名分

前原らは、王土王民制と士族禄制の復活を要求し、「君側の奸を除く」として同志約300人で蜂起したとされています(コトバンク「萩の乱」)。用語を補足しておきます。

用語 意味
王土王民制 国土と人民はすべて天皇に属するとする考え方に基づく体制
士族禄制 士族に家禄(世襲の俸禄)を支給する制度
君側の奸 君主のそばにいて政治を誤らせる臣下。挙兵の名目として使われる言葉

要求の中身から、萩の乱は「天皇に背く」のではなく「天皇のそばの政府首脳を除く」という形で正当化されていたことがうかがえます。

なお、明治9年には廃刀令(3月)や秩禄処分(8月)があり、士族反乱全般の背景の一つとされます。ただし萩の乱の直接の引き金と明示した資料は今回確認できなかったため、時代背景として触れるにとどめます。

神風連の乱・秋月の乱との連動

萩の乱は単独の事件ではありません。同年10月24日の熊本・神風連の乱、福岡・秋月の乱と連動した不平士族反乱の一つに位置づけられています(コトバンク「萩の乱」)。

反乱 地域 時期 主な担い手
佐賀の乱 佐賀 明治7年(1874年) 佐賀の不平士族
神風連の乱 熊本 明治9年(1876年)10月24日 熊本の不平士族
秋月の乱 福岡 明治9年(1876年)10月 秋月の不平士族
萩の乱 山口 明治9年(1876年)10月 前原一誠ら同志約300人
西南戦争 (本記事の範囲外) 明治10年(1877年) 西郷隆盛を中心とする士族

佐賀の乱から西南戦争までを並べると、萩の乱は不平士族反乱が連続した時期の一つの山にあたります。西南戦争の戦闘経過は本記事の範囲外のため、ここでは位置づけだけを示します。

挙兵から鎮定・捕縛まで

10月31日、山口県令関口隆吉が率いる政府軍との交戦が始まりました。広島鎮台司令官三浦梧楼らの鎮圧部隊が送られ、11月6日に鎮定されたとされています(コトバンク「萩の乱」)。

前原は海路で逃れようとしましたが、途中で遭難し、出雲の宇竜港(現在の島根県出雲市)で捕らえられたとされています。

裁判は、司法卿大木喬任が萩に出張して主導しました。前原は奥平謙輔、横山俊彦らとともに、明治9年(1876年)12月3日に萩で斬首刑に処されたとされています。

冒頭に掲げた錦絵は、事件と同じ明治9年に刊行されたものとされます。当時から萩の乱が大きな関心を集めていたことを伝える資料ですが、描写の細部は史実の記録としてではなく、版画作品として見るのが妥当です。

史実と通説の違い(資料で記述が分かれる点)

萩の乱については、事典の間でも記述が一致しない点があります。本記事でどう扱ったかとあわせて整理します。

論点 資料による記述 本記事の扱い
挙兵の日付 『世界大百科事典』は10月26日に同志が明倫館に集合したと記し、『日本大百科全書』系の解説は10月28日挙兵とする 単一の日付に断定せず、交戦開始の10月31日を基準にした
処刑者数 「7人」「8人」など資料によって異同がある 確定できないため人数を書かず、氏名が確認できる人物に限った
挙兵の主体性 前原が主導したのか、奥平謙輔ら急進派に押されたのかは伝記紹介で触れられる 研究者の見解を確認できず、未確定として扱った
廃刀令・秩禄処分 士族反乱全般の背景として言及される 萩の乱固有の直接の引き金とは書かなかった

挙兵日は、資料によって「集合した日」と「挙兵した日」のどちらを書いているかが異なる可能性もあります。正確な日付を知りたい場合は、複数の事典を見比べるのが確実です(コトバンク「萩の乱」)。

また、前原が明治9年3月に政府を批判する書簡を書いたことが事典の要約で触れられています。ただし原文を確認できなかったため、本記事では引用していません。

諸説・論争点:前原は主体的に挙兵したのか

奥平謙輔の肖像写真(国立国会図書館「近代日本人の肖像」、著作権保護期間満了)

出典: 国立国会図書館「近代日本人の肖像」奥平謙輔(著作権保護期間満了)

萩の乱でもっとも気になるのは、前原自身がどこまで武装蜂起を望んでいたのかという点です。上の写真は、前原とともに処刑された奥平謙輔です。

佐賀の乱では説得役を務めた前原が、2年後には挙兵の中心にいました。この変化を「前原の主体的な決断」と見るか、「奥平謙輔ら急進派に引き込まれた結果」と見るかで、人物像は大きく変わります。

ただし、今回確認できた資料は事典レベルの要約が中心でした。どちらの見方についても、研究者名と論拠まで辿れる学説としては確認できていません。そのため本記事では両論を対等な学説として並べず、「分かっていないこと」として扱います。

この点をさらに調べる手がかりとして、事典の参考文献欄などに次の文献が挙がっています。

  • 小林茂『長州藩明治維新史研究』(1968年、未来社)
  • 後藤靖『士族反乱の研究』
  • 安藤紀一 著、田村貞雄 校注『前原一誠年譜』(2003年、マツノ書店)
  • 奈良本辰也『評伝前原一誠』
  • 妻木忠太『前原一誠伝』

いずれも本記事では本文を確認できていないため、内容の紹介は控えます。図書館などで直接当たるのが確実です。

ゆかりの地・史跡(萩の乱の舞台)

萩の乱は、前原が生まれ育った萩の城下町を舞台に起きました。本陣が置かれた明倫館があった萩城下町には、天守を失った萩城跡が今も残ります。

ここでは観光案内ではなく、事件との関わりに絞って場所を整理します。

場所 萩の乱との関わり
萩の城下町 前原の出身地であり、挙兵の舞台。前原らの処刑地でもある
明倫館 『世界大百科事典』の記述では、10月26日に同志が集合した場所
宇竜港(島根県出雲市) 海路で逃れた前原が捕らえられた場所

生まれた町で兵を挙げ、同じ町で最期を迎えたという点に、萩の乱が前原一誠という人物と切り離せない事件だったことが表れています。

まとめ

萩の乱は、明治9年(1876年)10月、前原一誠ら不平士族が萩で起こした反政府の挙兵とされています。原因と経緯の要点は次のとおりです。

  • 明治3年(1870年)、新政府の方針や兵制改革をめぐる意見の相違から、前原は兵部大輔を辞して萩へ帰郷した
  • 明治7年(1874年)の佐賀の乱では、県の依頼で不平士族を説得する側に立っていた
  • 明治9年10月、神風連の乱に呼応し、王土王民制と士族禄制の回復、「君側の奸を除く」を掲げて約300人で蜂起した
  • 11月6日に鎮定され、前原は宇竜港で捕らえられ、12月3日に萩で処刑された

萩の乱は、佐賀の乱に続き、翌明治10年(1877年)の西南戦争に先行する不平士族反乱の一つに位置づけられます。

ここで改めて、本記事で確定できなかった点を振り返っておきます。「史実と通説の違い」で触れたとおり、挙兵の日付や処刑者数は資料によって記述が異なります。

前原がどこまで主体的に挙兵したのかも、今回確認した資料からは分かっていません。断定を避けて書いたのは、この水準の資料しか確認できなかったためです。

佐賀の乱から読み進めている方は、佐賀の乱で説得役だった前原が2年後に挙兵した、という流れを押さえておくと、明治初期の士族反乱の連なりが追いやすくなります。

前原本人の歩みをさらに詳しく知りたい方は、「諸説・論争点」で挙げた年譜や研究書(安藤紀一・田村貞雄校注『前原一誠年譜』など)から読み始めると、本記事で触れられなかった細部に近づけます。

参考文献・典拠

本文で使用した出典は次のとおりです(いずれも2026-10-27確認)。

画像の出典は次のとおりです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です