徳川慶喜の肖像写真(将軍在任中の撮影)
History

徳川慶喜はなぜ戦わずに大政奉還・江戸城を明け渡したのか|史実を整理する

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結論

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、なぜ一度も本格的に戦わないまま政権と江戸城を手放したのでしょうか。「敵前逃亡の愚将」と呼ばれる一方、「内乱を防いだ」と評価されることもあります。

この記事では、慶喜を主語にして3つの場面を時系列で整理します。史料で確かめられる事実と、研究者の解釈とを分けて読めるように書いています。

徳川慶喜の肖像写真(将軍在任中の撮影)

出典: 渋沢栄一編『徳川慶喜公伝』(1918年)より / パブリックドメイン

先に結論を示します。慶喜は次の3つの場面で、いずれも武力で抵抗する道を選びませんでした。

場面 時期(旧暦) 慶喜の選択
大政奉還 慶応3年10月14日 政権を朝廷に返上
鳥羽・伏見の戦い 慶応4年1月3〜7日 自ら出陣せず大坂城から海路で江戸へ
江戸城明け渡し 慶応4年4月11日 戦わずに城を新政府軍へ引き渡す

理由としてよく挙げられるのは、朝敵(天皇に背く者)になることを避けたこと、内乱の拡大や外国の介入を防いだこと、生家の水戸徳川家で育まれた尊王思想の3つです。

ただし、これらは研究者や解説者による解釈で、評価は一つに定まっていません。劣勢から逃れただけだとする厳しい見方もあり、本記事では両方を紹介します。

大政奉還から江戸城明け渡しまでの流れ(年表)

ここからは、3つの決断を出来事の順に追い、そのうえで評価の分かれ目を見ていきます。日付は当時の暦(旧暦)で表記します。西暦は最初に出てくる大政奉還の日付にのみ添え、以降は年表の西暦列を参照してください。

まず全体の流れを表にまとめます。確度の欄は、史料で直接確かめられる事実か、研究上の通説かを示しています。

年月日(旧暦) 西暦 出来事 確度
慶応3年10月3日 1867年10月29日 山内容堂が慶喜に建白を提出 史料で確認
慶応3年10月13日 1867年11月8日 二条城に在京諸藩の重臣を召集 史料で確認
慶応3年10月14日 1867年11月9日 朝廷に政権返上を申し出る(翌15日受理) 史料で確認
慶応3年12月9日 1868年1月3日 王政復古の大号令 史料で確認
慶応4年1月3〜6日 1868年1月27〜30日 鳥羽・伏見の戦い 通説
慶応4年1月6〜12日 1868年1月30日〜2月5日 大坂城を脱出し、開陽丸で江戸へ 通説
慶応4年2月ごろ (西暦は未確定) 上野・寛永寺で謹慎し恭順を示す 通説
慶応4年3月13・14日 1868年4月5・6日 西郷・勝会談、総攻撃中止が決まる 史料で確認
慶応4年4月11日 1868年5月3日 江戸城無血開城 史料で確認
明治元年7月 1868年 駿府・宝台院へ移り謹慎 通説

大政奉還(慶応3年10月14日=1867年11月9日)

直接のきっかけは、10月3日に土佐藩前藩主・山内容堂が出した建白でした。今こそ「王制復古之業を立てざるべからざるの一大機会と存じ奉り候」と、政権返上を促す内容です(京都市「大政奉還とは」)。

慶喜は10月13日、尾張・紀州・薩摩・土佐・会津など40藩50余名の重臣を二条城に集め、政権返上の方針を示して意見を求めました。

翌14日、慶喜は「従来之旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り」とする上表を朝廷に提出します。朝廷は15日、摂政・二条斉敬らの協議を経てこれを受け入れました(京都市・宮川禎一氏執筆資料)。

王政復古の大号令(慶応3年12月9日)

大政奉還から鳥羽・伏見の戦いへ進む前に、ひとつ用語を整理しておきます。12月9日の王政復古の大号令には、「徳川内府(内大臣慶喜)、従前御委任大政返上、将軍職辞退之両条、今般、断然聞こし食され候」とあります。

ここで使われている語は「大政返上」です。私たちが知る「大政奉還」という4字の言葉は当時の史料には見当たらず、後になって付けられた呼び名です。この違いを踏まえたうえで、情勢は急速に動いていきます。

鳥羽・伏見の戦いと大坂城脱出(慶応4年1月3〜7日)

慶応4年1月3日から6日、京都南郊の鳥羽・伏見で旧幕府軍と、薩摩・長州を主力とする新政府軍が衝突したとされています(鹿児島県「戊辰戦争」)。

1月5日には新政府軍に「錦の御旗」(天皇の軍であることを示す旗)が掲げられました。これにより、旗を掲げられなかった旧幕府軍は朝敵とみなされる立場に置かれたと考えられています。

慶喜は戦闘に加わらず大坂城にとどまり、6日夜に側近と城を出たとされます。7日朝に軍艦「開陽丸」に乗り、12日に江戸城へ着いたというのが通説です(文春オンライン)。

恭順表明と寛永寺での謹慎(慶応4年2月ごろ)

江戸に戻った慶喜は、上野の寛永寺に移って謹慎し、新政府に恭順(逆らわず従うこと)の意を示したと考えられています(コトバンク「徳川慶喜」、文京区)。

寛永寺に入った日付は「2月12日」と紹介されることが多いものの、今回の調査では公的な資料で日単位まで確かめられませんでした。ここでは「2月ごろ」としておきます。

西郷・勝会談と江戸城無血開城(慶応4年3月〜4月)

3月13日・14日、幕府陸軍総裁の勝海舟と新政府軍参謀の西郷隆盛が江戸の薩摩藩邸で会談しました。その結果、翌15日に予定されていた江戸城総攻撃は中止されます。

4月11日、新政府軍が江戸城に入り、城は戦闘を経ずに明け渡されました。城郭は尾張藩、武器は熊本藩が管理しています(コトバンク「江戸開城」)。

その後の謹慎生活(水戸から駿府へ)

江戸開城の後、慶喜は水戸で謹慎し、明治元年(1868年)7月には駿府(現在の静岡市)の宝台院へ移ったとされています(静岡新聞社「宝台院」)。

史実と通説の違い——「愚将」「敵前逃亡」という評価は正しいか

慶喜の評価を考えるうえで、まず区別したいのが「史料にある言葉」と「後世の呼び名」です。前述のとおり、当時の大号令に書かれていたのは「大政返上」でした。「大政奉還」は後世の呼称です。

評価そのものも時代によって変わってきました。歴史作家の河合敦氏の指摘によると、教科書の記述は次のように変化しています(プレジデントオンライン)。

時期 教科書の記述 背景にある見方
大正期 「逃げ帰った」「臆病者」 戦わずに退いたことへの否定的評価
現在 「日本の独立を守ることにつながった」 内乱の長期化や外国の介入を防いだという評価

現在の教科書の記述は、慶喜がフランス公使ロッシュからの軍事支援の申し出を断った点などを踏まえたものとされます。

内乱が長引けば外国が介入する余地が生まれる、という見方が背景にあると考えられています。「愚将か名将か」という問いの答えは、時代の価値観によって揺れてきたと言えます。

「朝廷に弓を引くな」という家訓は本当か

慶喜の生家は水戸徳川家です。水戸藩は2代藩主・徳川光圀以来『大日本史』の編纂を通じて尊王思想(水戸学)を育んだとされ、慶喜も父・斉昭が創った藩校・弘道館で学んだと考えられています。

水戸家には「朝廷と幕府が争っても朝廷に弓を引いてはならない」という家訓が代々伝わっていた、とダイヤモンド・オンラインや現代ビジネスなど複数の歴史解説記事で広く紹介されています。

ただし、これらの記事はいずれも家訓の原文そのものを一次史料として示していません。伝えられた時期も含め、史料で確かめることはできませんでした。

この家訓を慶喜の行動の決定的な理由と見るのは慎重であるべきでしょう。尊王思想が影響した可能性はあるものの、一つの説明として受け止めるのが妥当です。

諸説・論争点

慶喜の決断については、研究者や解説者の間で見方が分かれています。代表的な2つの論点を、両方の説を並べて紹介します。

論点 説A 説B
大政奉還の狙い 薩長の機先を制し、主導権を保つための戦略的な先手(真山知幸氏) 後世の評価を重視し、名誉を保って早く身を引いた(加来耕三氏)
鳥羽・伏見後の退却 過信と見込みの甘さによる敗走(河合敦氏) 内乱の長期化と列強の介入を防いだ(現在の教科書の記述)

論点1:大政奉還は戦略か、身の引き方か

伝記作家の真山知幸氏は、大政奉還を武力討幕の大義名分を薩長から奪う「先手先手の対応」と見ます。諸侯会議のもとで徳川家が主導権を保つ狙いがあったという説です(東洋経済オンライン)。

これに対し歴史家の加来耕三氏は、慶喜を「後世、自分はどう評価されるか」を最も重く見た「稀代の歴史主義者」と評します。勝算の薄い戦いを続けず、早めに身を引いたという見方です(現代ビジネス)。

論点2:大坂城からの退却は失策か、内乱回避か

河合敦氏は、慶喜が戦況を見誤り、過信と見込みの甘さから撤退に追い込まれたと評価しています。大正期の教科書の「逃げ帰った」という記述も、この見方に近いものです。

一方、同じ記事で紹介されているように、現在の教科書は内乱の拡大と外国の介入を防いだ点を評価する書き方です。どちらか一方が正しいと決めきれる状況ではなく、評価は今も分かれています。

ゆかりの地・史跡

慶喜の3つの決断の舞台は、今も訪ねることができます。

場所 所在地 関わり
元離宮二条城 京都市 大政奉還の方針を示した二の丸御殿大広間
大坂城 大阪市 鳥羽・伏見の戦いの際に滞在し、脱出した城
皇居東御苑・伏見櫓 東京都 無血開城の舞台となった旧江戸城の遺構
寛永寺 東京都台東区上野 恭順を示して謹慎した寺
宝台院 静岡市 謹慎生活を送った寺

元離宮二条城(京都市)

慶喜が重臣を集めて政権返上の方針を示したのは、二の丸御殿の大広間です。二条城は世界文化遺産「古都京都の文化財」の一つで、公開状況は元離宮二条城公式サイトで確認できます。

伏見櫓(皇居・旧江戸城)

無血開城の舞台となった江戸城は、現在の皇居にあたります。伏見櫓は、その旧江戸城の現存遺構の一つです。

宝台院(静岡市)

慶喜が駿府で謹慎生活を送った寺で、境内には「徳川慶喜公謹慎之地」の碑があります(静岡新聞社「宝台院」)。拝観の可否は訪問前に確認してください。

まとめ

徳川慶喜は、大政奉還、鳥羽・伏見後の大坂城脱出、江戸城明け渡しという3つの場面で、いずれも武力で争わない道を選びました。ここまでは史料や通説でたどれる事実です。

一方、「なぜ」の答えは一つではありません。朝敵となるのを避けた、内乱と外国の介入を防いだ、尊王思想の影響といった説明があり、劣勢から逃れたとする厳しい評価もあります。

慶喜の決断をもっと深く知りたい方は、家近良樹『徳川慶喜』(人物叢書)や松浦玲『徳川慶喜〈増補版〉』(中公新書)などの評伝を手に取ってみてください。二条城や宝台院を訪ね、その場所で当時の選択を想像してみるのもおすすめです。

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参考文献・典拠

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