岩倉具視はなぜ岩倉使節団を率いて欧米に渡ったのか|史実を整理する
岩倉具視はなぜ岩倉使節団を率いたのか(結論)
「岩倉使節団はなぜ欧米に渡ったのか」「なぜ岩倉具視が率いたのか」。教科書では1行で済まされがちですが、派遣の時期と目的には、当時の政治状況がはっきり刻まれています。この記事では、公的機関や研究者の資料をもとに、派遣の理由と結果を順に整理します。
岩倉使節団は、明治4年11月12日(新暦1871年12月23日)に横浜港を出発し、明治6年(1873年)9月13日に帰国しました。派遣の目的は、条約改正の予備交渉と、欧米諸国の制度・文物の調査の2つだったとされています(中央大学紀要論文、外務省外交史料館)。
なぜこの時期だったのかは、次の2つの事情から説明できると考えられています。
- 幕末の条約が、明治5年5月29日(新暦1872年7月4日)に改正交渉が可能になる期日を迎えようとしていた
- 廃藩置県(明治4年7月)の直後で、国内の中央集権化が始まったばかりだった
では、なぜ使節団を率いたのが岩倉具視だったのでしょうか。 岩倉具視は、王政復古(天皇を中心とする政治体制に戻す動き)を画策し、新政府で参与・議定・大納言・右大臣を歴任した中枢の人物です。木戸孝允・大久保利通とともに「維新の元勲」の一人とされます(国立国会図書館「近代日本人の肖像」、東京大学史料編纂所)。当時の右大臣は新政府における最高位の役職であり、かつ岩倉自身が王政復古を主導した中心人物でもありました。この地位と信頼を背景に、政府首脳を代表する正使として岩倉が選ばれたと考えられます。
その岩倉が特命全権大使となり、木戸・大久保・伊藤博文・山口尚芳が副使に並びました。政府の首脳が自ら欧米へ出向く、異例の規模の使節だったことがわかります。
なお、岩倉個人が大使を引き受けた際の心境を直接語る史料は、今回の調査範囲では確認できていません。右大臣としての立場や維新の元勲としての信頼は手がかりになりますが、本人の意思そのものについては断定を避けておきます。以下では、確認できる事実と研究上の通説を分けて見ていきます。
ここからは、岩倉具視の歩みと使節団の経緯を時系列で追い、一般的なイメージとの違いや評価の分かれ方までを整理します。
岩倉具視の生涯と岩倉使節団までの流れ(年表)
岩倉具視は文政8年(1825年)に京都で生まれた公家で、堀河康親の子として岩倉具慶の養子になったとされています(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)。
安政5年(1858年)には日米修好通商条約の勅許に反対しました。その後は公武合体派として和宮降嫁に関わったため尊攘派から排斥され、洛北・岩倉で幽棲生活を送ったとされます。
主な出来事を年表にまとめます。旧暦の日付には新暦を併記しました。
| 年 | 出来事 | 確度 |
|---|---|---|
| 文政8年(1825年) | 9月15日(新暦10月26日)、京都で誕生 | 研究通説 |
| 安政5年(1858年) | 日米修好通商条約の勅許に反対 | 研究通説 |
| 文久2年〜慶応3年(1862〜1867年) | 洛北・岩倉で幽棲生活 | 研究通説 |
| 慶応3年(1867年) | 大久保利通らと王政復古を画策 | 研究通説 |
| 明治4年(1871年) | 7月14日(新暦8月29日)、廃藩置県の詔 | 研究通説 |
| 明治4年(1871年) | 11月12日(新暦12月23日)、使節団が横浜港を出発 | 一次史料 |
| 明治5年(1872年) | 5月14日、大久保・伊藤が国書委任状の下付を受ける | 研究通説 |
| 明治6年(1873年) | 9月13日、使節団が帰国 | 一次史料 |
| 明治6年(1873年) | 10月、明治六年政変 | 研究通説 |
| 明治11年(1878年) | 久米邦武『特命全権大使米欧回覧実記』刊行 | 研究通説 |
なぜこの時期に派遣されたのか(廃藩置県と条約改正期日)
1つ目の事情は国内です。明治4年7月14日の詔で廃藩置県が断行され、藩を廃止して府県に一元化する中央集権化が進められました(国立公文書館)。使節団の出発は、そのわずか4か月後にあたります。
2つ目の事情は外交です。幕末に結んだ安政の五カ国条約は、明治5年5月29日(新暦1872年7月4日)に改正交渉が可能になる期日を定めていました。
使節団はこの期日を見据え、条約改正の予備交渉と制度・文物の調査を目的に派遣されたと考えられています(外務省外交史料館)。
国内では大改革の直後、国外では交渉の期日が目前。この2つが重なった時期に、政府首脳が長期間国を空けたことになります。
そのため出発前、使節団首脳と留守政府との間で「大臣参議及各省卿大輔約定書」(十二項目)が結ばれました。留守中の大規模な改革は控える一方、廃藩置県の後始末は速やかに進めると定めたものとされます。
廃藩置県の処置は内地政務の純一に帰せしむべき基なれば、条理を逐て順次其実効を挙げ、改正の地歩をなさしむべし
——「大臣参議及各省卿大輔約定書」(国立公文書館 特別展「躍動する明治」解説)
使節団の顔ぶれは次のとおりです(国立公文書館ほか)。
| 人物 | 立場 |
|---|---|
| 岩倉具視 | 正使(特命全権大使) |
| 木戸孝允 | 副使 |
| 大久保利通 | 副使 |
| 伊藤博文 | 副使 |
| 山口尚芳 | 副使 |
| 久米邦武 | 随行。のちに『米欧回覧実記』をまとめる |
| 津田梅子・山川捨松ら | 同日に渡米した最初の女子留学生 |
総人数は資料によって差があります。出発時に「アメリカ号」(太平洋郵船の船名で、国名ではありません)に乗った政府使節は46名で、留学生約60名を含めると107名前後とされます。合流した書記官を加える数え方や日本外交文書の記載では数字がやや変わりますが、これは数える範囲の違いによるものです(中央大学紀要論文)。
アメリカでの交渉と全権委任状問題
アメリカに着いた使節団は、当初予定の予備交渉から一転し、直ちに条約改正の本交渉に入ることを決めたとされます。ところがアメリカ側は「日本政府の全権委任状を提示せよ」と求めました。
全権委任状とは、交渉や条約締結の権限を政府から与えられていることを示す公文書です。使節団はこれを十分に持っていなかったと考えられています。
そこで大久保利通と伊藤博文が一時帰国し、明治5年5月14日(1872年)に条約改正の権限を持つ「国書委任状」の下付を受けて再渡米しました(国立公文書館デジタルアーカイブ)。
この国書委任状がどこまでの権限(調印までか、協議までか)を認めていたかは、今回の調査では原文を確認できていません。断定は避けておきます。
結局、条約改正交渉は成功しませんでした。欧米側は、日本の司法制度や法典が未整備であること(法権欠損)を理由に交渉に応じなかったとされます(山口県文書館、フェリス女学院大学紀要)。
使節団はここで方針を切り替え、予備交渉と視察を重視する形で欧米を回ったと考えられています。
史実と一般的なイメージの違い
岩倉使節団は「欧米に渡って不平等条約を改正した」と受け取られることがあります。しかし上で見たとおり、使節団の条約改正交渉は不成功に終わっています。
この使節団を象徴する有名な一枚に、岩倉具視だけが和装、ほかの4人の副使(木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳)が断髪・洋装で並ぶ集合写真があります。ただし撮影地は資料によって記載が異なり、確定できません。この構図のとおり、使節団は「洋装で視察する一団」というイメージで広く知られてきました。副使の一人だった伊藤博文の肖像を以下に示します。

一方で、視察の成果は帰国後の政治に持ち込まれたとされます。帰国後、明治六年政変(1873年10月)を経て、大久保利通が同年設置の内務省を中心に政権を主導しました。
大久保は米欧視察の見聞を殖産興業政策に反映させようとしたと考えられています(コトバンク「岩倉使節団」日本大百科全書)。
また、留守政府は約定書がありながら、学制公布・徴兵令発令・太陽暦採用などの改革を進めていました。西郷隆盛の遣韓論をめぐる対立が、明治六年政変につながったとされます(国立公文書館)。
| よくあるイメージ | 史料・研究から言えること |
|---|---|
| 条約改正を実現した | 改正交渉は不成功。法権欠損を理由に欧米側が応じなかった |
| 最初から本交渉のつもりだった | 当初は予備交渉の予定で、アメリカで本交渉へ方針を転換した |
| 視察旅行にすぎなかった | 見聞は内務省主導の殖産興業政策に反映が図られたとされる |
| 留守中は政治が止まっていた | 留守政府は学制・徴兵令・太陽暦などの改革を進めた |
諸説・論争点
使節団をどう評価するかについては、研究の中で見方が分かれてきました。
| 論点 | 説A:「失敗」と見る | 説B:「成果」を重く見る |
|---|---|---|
| 評価の基準 | 条約改正交渉が不成立に終わったこと | 視察の記録と帰国後の政策への影響 |
| 主な根拠 | 条約改正問題を出発点とする戦後の外交史的研究 | 『米欧回覧実記』の研究、殖産興業政策への影響 |
| 出典 | 関西大学紀要(研究史の整理) | 日本大百科全書(田中彰執筆) |
説Aは、条約改正という外交上の目標に照らして使節団を評価する立場です。関西大学紀要の研究史整理によると、この評価軸は戦後の外交史研究の延長線上で長く続いたとされます。
説Bは、条約改正の不成立は認めたうえで、近代化への貢献を積極的に評価する立場です。随行した久米邦武は見聞を『特命全権大使米欧回覧実記』にまとめ、1878年に博聞社から刊行しました。
この記録を使った研究が進んだことで、使節団が近代日本に与えた影響が再検討されていると、日本大百科全書の「岩倉使節団」の項目は述べています。
どちらか一方が正しいというより、何を基準に評価するかの違いと見るのが穏当でしょう。
なお一般向けの解説では「本当は条約改正が狙いだったのか、視察が目的だったのか」という対立として語られることもあります。ただ、研究者を特定した学説の対立としては今回の調査で確認できなかったため、ここでは扱いません。
ゆかりの地・史跡
岩倉具視とゆかりの深い場所として、京都市左京区岩倉上蔵町100にある「岩倉具視幽棲旧宅」があります。文久2年から慶応3年まで、岩倉が排斥されて幽棲生活を送った洛北・岩倉の地です。

使節団を率いる前の岩倉が、政治の表舞台から離れていた時期を知るうえで手がかりになる場所といえます。
開館時間・休館日・入場料は変更されることがあります。訪問前に京都市の公式情報、または管理事務所(075-781-7984)で最新情報を確認してください(2026-10-09時点の情報)。
まとめ
岩倉具視が岩倉使節団を率いて欧米に渡った背景は、次のように整理できます。
- 目的は、条約改正の予備交渉と欧米の制度・文物の調査だったとされる
- 時期は、明治5年の条約改正期日と、廃藩置県直後という国内事情が重なっていた
- アメリカで本交渉に踏み込んだが、全権委任状の問題と法権欠損を理由に、改正交渉は不成功に終わった
- 見聞は『米欧回覧実記』に残り、帰国後の殖産興業政策への反映が図られたと考えられている
「失敗」か「成果」かは、何を基準にするかで見え方が変わります。気になった方は、使節団の記録そのものである『米欧回覧実記』(岩波文庫で刊行)を手に取ってみてください。
また、帰国後の明治六年政変をめぐる大久保利通と西郷隆盛の関係をたどると、使節団が残したものがより立体的に見えてきます。
参考文献・典拠
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」岩倉具視
- 東京大学史料編纂所 関連記事
- 国立公文書館 常設展示解説(廃藩置県)
- 外務省外交史料館 岩倉使節団と条約改正
- 国立公文書館デジタルアーカイブ(国書委任状)
- 国立公文書館 平成30年秋特別展「躍動する明治」解説
- 国立公文書館 デジタル展示(女子留学生)
- 中央大学紀要論文(使節団の人数・行程)
- 山口県文書館 資料(条約改正交渉)
- フェリス女学院大学紀要(条約改正交渉)
- 関西大学紀要(岩倉使節団研究史の整理)
- コトバンク「岩倉使節団」(日本大百科全書、田中彰執筆)
- 画像: 国立国会図書館「近代日本人の肖像」岩倉具視、伊藤博文(著作権保護期間満了、国立国会図書館の利用規約に基づき出典明記のうえ利用)
