豊臣秀吉はなぜわずか数年で大坂城を天下随一の城に築けたのか|史実を整理する
豊臣秀吉が大坂城本丸をわずか2年で完成させられた理由を、蔵入地200万石の経済力・西国大名への普請役・上町台地の立地・石垣技術の4点から整理します。現存遺構の大半が徳川期である点も解説。

豊臣秀吉が大坂城本丸をわずか2年で完成させられた理由を、蔵入地200万石の経済力・西国大名への普請役・上町台地の立地・石垣技術の4点から整理します。現存遺構の大半が徳川期である点も解説。
厳冬の北アルプスを越えたと語られる佐々成政の「さらさら越え」。浜松へ赴き織田信雄と対面した事実と、後世の軍記物や歌舞伎で広まった脚色を史料から切り分け、立山ルート説と飛騨ルート説の論争もあわせて整理します。
徳川家康が豊臣秀吉への臣従をなぜ数年も拒み続けたのかを、天正11年(1583年)の大坂城築城から天正14年(1586年)の上洛まで、史料と研究に基づいて整理します。小牧・長久手の戦いの評価や当時の領国についても確度を示して解説します。
天正7年(1579年)、徳川家康は正室・築山殿と嫡男・松平信康を失いました。信長が命じたとする通説の典拠は江戸期の『三河物語』で、同時代の一次史料に信長の命令は出てきません。史料でわかることと諸説が割れる点を整理します。
お市の方はなぜ北庄城で柴田勝家と共に自害を選んだのか。浅井長政の滅亡時には娘たちと生き延びた人が、二度目は逃げなかった理由を「渓心院文」など史料と研究者の見解から整理し、生存説など俗説との違いも確認します。
柴田勝家は北庄城で妻お市の方とともに最期を遂げましたが、子孫にあたる血脈はそこで途絶えていません。孫とされる柴田勝重は落城時に城を脱出し、のちに徳川家の旗本になったと伝わります。史料でわかること・言い伝え・確認できていないことを分けて整理しました。
織田信雄は自らの宿老3名を秀吉への内通を疑って誅殺し、徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いに至りました。対立の発端と経緯、いまも見解が分かれる論点を、公的資料と研究者の見解から整理します。
柴田勝家の養子でありながら長浜城を秀吉に明け渡した柴田勝豊。なぜ養父を裏切る形になったのかを、同時代の記録『柴田退治記』と研究者の解説から整理し、賤ヶ岳の戦いへの影響、開城日をめぐる未確定点、ゆかりの地までを解説します。
お市の方は小谷城落城では生き延び、10年後の北庄城では自害を選びました。同時代史料『柴田退治記』と江戸期の覚書『渓心院文』を区別しながら、自害の理由をめぐる通説と俗説、生存説や出自の論争まで整理します。
佐久間盛政が秀吉の助命を断って死んだという逸話は、近世の軍記物に由来し同時代史料の裏づけがありません。賤ヶ岳の戦いから処刑までの流れを、確かめられる事実と後世の脚色に分けて整理します。