徳川家康はなぜ正室・築山殿と嫡男・信康を殺さねばならなかったのか|史実を整理する
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結論
天正7年(1579年)、徳川家康は正室の築山殿と嫡男の松平信康を相次いで失いました。「なぜ殺さねばならなかったのか」という問いに、確定した唯一の答えは今日の研究でも出ていません。
先に要点を3つ示します。
- 通説は「信長命令説」。織田信長が家康に信康の切腹を命じたとする筋書きで、典拠は江戸時代初期の回顧録『三河物語』です。同時代の記録ではありません。
- 唯一の同時代一次史料(事件と同じ時代に作られた記録)に信長の命令は出てこない。天正7年8月8日付で家康が織田家臣・堀秀政に宛てた書状には、家康自身が信康の「不覚悟」を理由に追放したとのみ記されています(刀剣ワールド)。
- 家康自身が決断したとみる説が強まっている。ただし動機(武田勝頼との内通疑惑〈敵方とひそかに通じること〉、信康の気性、徳姫との不和)については研究者の見解が分かれます。
つまり「信長が命じた」「家康が非情だった」と一人の責任に帰す説明は、いずれも史料が支えきれていません。以下では確実に言えることと、議論が続いていることを分けて見ていきます。

築山殿・信康事件とは何か|天正7年の経過を年表で整理
築山殿(瀬名姫)は今川家の家臣・関口氏純(関口義広)の娘で、家康がまだ松平元康を名乗り今川家の人質だった時代に正室として迎えられたと考えられています(日本大百科全書「築山殿」)。
二人の間に生まれた嫡男が松平信康です。信康は永禄10年(1567年)に信長の娘・徳姫(五徳)を妻に迎え、織田・徳川同盟をつなぐ立場にありました。
事件が集中するのは天正7年(1579年)の8月から9月にかけてのわずか6週間です。日付はいずれも旧暦である点に注意してください。
| 和暦(西暦) | できごと |
|---|---|
| 永禄2年(1559年)3月6日 | 信康、駿府で家康と築山殿の嫡男として誕生 |
| 永禄10年(1567年) | 信康、信長の娘・徳姫と結婚。家康の浜松城移座にともない岡崎城を託される |
| 元亀元年(1570年) | 信康、正式に岡崎城主となる |
| 天正3年(1575年) | 岡崎で武田方への内通未遂事件「大岡弥四郎事件」が発覚 |
| 天正7年(1579年)8月4日 | 家康、信康を「不覚悟」を理由に岡崎城から追放 |
| 天正7年(1579年)8月8日 | 家康、堀秀政宛の書状で追放の経緯を伝える |
| 天正7年(1579年)8月29日 | 築山殿、二俣城へ護送される途中で命を絶たれる |
| 天正7年(1579年)9月15日 | 信康、二俣城で切腹(21歳) |
唯一の同時代一次史料「堀秀政宛家康書状」に書かれていること
この事件について現存する同時代の一次史料はごくわずかで、その中心が天正7年(1579年)8月8日付の家康書状です。宛先は信長の家臣・堀秀政で、「三郎(信康)不覚悟につき、今月四日岡崎追い出し候」という趣旨が記されています(愛知県史 資料編11 所収)。
重要なのは、この書状に信長が処断を命じたことを示す文言がまったくないことです。書かれているのは、家康自身が信康の「不覚悟(考えが至らぬこと)」を理由に岡崎から追放した、という事実だけです。
追放された信康は遠江国の二俣城(現・静岡県浜松市天竜区)へ移され、家臣・大久保忠世の監視下に置かれました。そして天正7年(1579年)9月15日、同城で切腹し21歳で世を去っています。
築山殿はそれに先立つ8月29日、岡崎から二俣城へ護送される途中、遠江国敷知郡(現・浜松市中央区富塚付近、佐鳴湖畔)で家康の命により命を絶たれたと考えられています。

通説はどこから来たのか|『三河物語』が伝える「信長命令説」
「信長が切腹を命じた」という筋書きの主な典拠は、家康の家臣・大久保彦左衛門忠教が著した『三河物語』です。徳姫が信康・築山殿の非を12か条にまとめて信長に送り、信長が使者の酒井忠次に事実確認をしたところ忠次が有効な反論をしなかったため、信長が切腹を命じた、という流れが語られます(歴史街道オンライン)。
ただし『三河物語』は事件から数十年後、江戸幕府が成立したあとに徳川家臣が書いた回顧録です。同時代史料による裏付けはなく、この筋書きをそのまま史実として断定することはできません。
同じ江戸時代に成立した『松平記』は、少し異なる話を伝えます。信長が「このような人物に徳川家を継がせては大事になる」と述べ、家康自身が処断を決意して信長に伺いを立てた、という記述で、信長主導ではなく家康主導を示唆する内容です。
築山殿の最期についても、実行した家臣を岡本時仲・野中重政と名指しし、両者の問答や築山殿の最期の言葉まで描く逸話が広く流布しています。これは同時代史料に基づくものではなく、江戸時代の軍記物(史実を題材にした読み物風の歴史書)や地誌に由来する脚色である可能性が高い話です。
信康が最期に「武田勝頼に内通して謀反など企んでいない」と述べたとされる話も、江戸後期に成立した『改正三河後風土記』という編纂軍記物の記述で、同時代史料での裏付けは確認できません。劇的な場面ほど後世の産物である、と身構えておくのが安全です。

諸説・論争点|決めたのは誰か、武田内通はあったのか
研究者の見解が割れているのは主に2点です。まず対立軸を整理します。
| 論点 | 説A | 説B |
|---|---|---|
| 処断を決めたのは誰か | 信長が命じ、家康は従った(信長命令説)。典拠は江戸初期成立の『三河物語』 | 家康自身が判断した(家康主体説)。天正7年8月8日付家康書状に信長の命令を示す文言がないことが根拠 |
| 武田勝頼との内通はあったか | 一定の根拠がある。天正3年(1575年)の大岡弥四郎事件への築山殿の関与が信長に知られたことが発端(平山優氏) | 直接示す同時代史料がなく、連座処罰された家臣の記録も見当たらない。信康の気性や徳姫との不和を重視(本多隆成氏) |

論点1|決めたのは信長か、家康自身か
江戸時代以来の通説は説Aでした。しかし典拠の『三河物語』は事件から数十年後の回顧録であり、同時代の証拠としては弱いという見方が定着しています。
一方、唯一の同時代一次史料である堀秀政宛書状は、家康自身が追放を決めたと読める内容です。駿河台大学教授の黒田基樹氏も、通説は信長が切腹させるよう命じたというものだったが、家康が決断したとの見方が強まっていると述べています(中日新聞しずおかWeb)。
ただし「家康が決めた」としても、家康が信長の意向を推し量って動いた可能性は残ります。両説は完全な二者択一ではなく、信長の圧力をどこまで見積もるかの差でもある、と理解しておくとよいでしょう。
論点2|築山殿・信康は武田勝頼と内通していたのか
武田氏研究で知られる平山優氏は、天正3年(1575年)に岡崎で発覚した「大岡弥四郎事件」に築山殿が深く関与しており、それが信長に知られたことが事件の発端になったとみています(幻冬舎plus)。
もっとも平山氏も、信康・築山殿が武田方と積極的に関与した可能性は皆無ではないとしつつ、三河の家臣団が同調した形跡はなく、実質的な内通関係が成立していたとまでは考えにくいとします。事件を決定づけたのは、信康自身の激しい言動が家中に「逆心あり」との風説を広げたことだと分析しています。
これに対し静岡大学名誉教授の本多隆成氏は、内通を直接示す同時代史料がないことを重視します。内通が事実であれば連座して処罰された家臣がいるはずなのに、そうした記録が見当たらない、というのが疑義の根拠です(婦人公論.jp)。
本多氏は代わりに信康自身の資質・気性と徳姫との夫婦不和を重くみます。『松平記』が「武辺は勝れ」ていても「余りに荒き人にて、かりにも慈悲と云うことを知らず」と評した点や、鷹狩りで僧侶を殺害したとされる逸話を挙げています。先述した徳姫の12か条の訴状(『三河物語』が伝える内容)も、夫婦の間に何らかの亀裂があったことをうかがわせますが、訴状の具体的な中身は同時代史料に残っておらず、何が実際の原因だったのかまでは特定できません。その『松平記』自体も後世の編纂物である点には注意が必要です。
研究の視点が広がっている
論点1・論点2で見た黒田基樹氏・平山優氏・本多隆成氏の議論に加えて、歴史学者の柴裕之氏は、江戸時代以来の「松平・徳川中心史観」を排したうえで、信長・武田氏を含む同時代の視点から事件の実態を検証する必要があると論じています。徳川家の内輪の悲劇としてではなく、東国の政治情勢の一断面として読み直す流れです。それぞれの著書の詳しい内容は、巻末の参考文献・典拠をご覧ください。
史実とドラマ・通説の違い
映像作品は限られた尺で人物の動機を伝えるため、どうしても一つの解釈を選び取る必要があります。通説が広く知られているぶん、信長の命令として描かれる場面も少なくありません。
| よく語られる筋書き | 史料からわかること |
|---|---|
| 信長が家康に信康の切腹を命じた | 信長の命令を示す同時代の文書は確認されていない |
| 徳姫の12か条の訴状が引き金になった | 典拠は江戸初期成立の『三河物語』で、同時代史料の裏付けはない |
| 築山殿は武田と通じた「悪女」だった | 内通を直接示す同時代史料はなく、評価は研究者間で割れている |
| 築山殿の最期は家臣との問答まで詳しく伝わる | 実行者名や最期の言葉は江戸期の軍記物・地誌に由来する脚色の可能性が高い |
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第34回は2026年9月6日に放送されます。作品ごとの解釈や演出は創作として楽しみ、史料が語れる範囲とは切り分けておくと、事件の輪郭がぼやけずに済みます。
築山殿・信康ゆかりの地|訪ねられる史跡
事件の舞台は愛知県岡崎市と静岡県浜松市に分かれています。年表と地図を重ねると、追放から死までの移動が実感として理解できます。
| 史跡 | 所在地 | ゆかり |
|---|---|---|
| 岡崎城 | 愛知県岡崎市(岡崎公園内) | 元亀元年(1570年)に信康が城主となった城 |
| 二俣城跡 | 静岡県浜松市天竜区 | 信康が監視下に置かれ切腹した終焉の地。国指定史跡 |
| 西来院・月窟廟 | 静岡県浜松市中央区 | 築山殿の墓所と伝わる霊廟 |

築山殿が命を絶たれたとされる場所は、浜松市中央区富塚付近の佐鳴湖畔と考えられています。西来院はそこからほど近く、霊廟「月窟廟」が築山殿を今に伝えています。

なお拝観の可否や開館時間、史跡の整備状況は変わります。訪問前に各自治体・寺院の公式サイトで最新情報を確認してください(2026-08-31時点の情報です)。
まとめ
築山殿と信康がなぜ死ななければならなかったのか。その答えは一つではなく、史料の性格を見分けたうえで幅を持って考えるほかありません。
- 確実なのは、天正7年(1579年)8月4日に家康が信康を「不覚悟」として追放し、8月29日に築山殿が、9月15日に信康が命を落としたことです。
- 「信長が命じた」という筋書きの典拠は江戸初期の『三河物語』で、同時代史料の裏付けはありません。
- 家康自身の判断とみる説が強まる一方、その動機が武田内通疑惑なのか信康の気性なのかは、平山優氏と本多隆成氏で見解が分かれています。
一人の悪役を探すより、複数の要因が重なった政治判断として読むほうが史料に忠実です。関心を持たれた方は下記の研究書にあたるか、岡崎城・二俣城跡・西来院を実際に歩いて、事件の距離感を確かめてみてください。
参考文献・典拠
- 天正7年8月8日付 徳川家康書状(堀秀政宛、愛知県史 資料編11 所収)の内容紹介/刀剣ワールド「松平信康の歴史」
- 黒田基樹『家康の正妻 築山殿―悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年10月刊/中日新聞しずおかWeb(黒田基樹氏インタビュー)
- 平山優『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書、2023年刊/幻冬舎plus(平山優氏執筆)
- 本多隆成『徳川家康の決断』中央公論新社/婦人公論.jp「信康と築山殿は実際に武田と通じていたのか?」(本多隆成氏執筆)
- 『三河物語』『松平記』の記述紹介/歴史街道オンライン(河合敦氏執筆)
- 日本大百科全書「築山殿」(コトバンク)、日本大百科全書「松平信康」(コトバンク)
- 柴裕之「徳川家康と『信康・築山殿事件』」公開講座案内/セカンドアカデミー
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