秀吉はなぜ謁見前夜に家康のもとをひそかに訪れたのか|「頭を下げてほしい」は史実か
天正14年(1586年)、大坂城での謁見の前夜に秀吉が家康の宿所を訪れたとされる逸話を、史料にもとづく部分と後世の創作に分けて整理。「頭を下げてほしい」という依頼の文言はどこから来たのか、秀吉が訪ねた理由とあわせて確度別に解説します。

天正14年(1586年)、大坂城での謁見の前夜に秀吉が家康の宿所を訪れたとされる逸話を、史料にもとづく部分と後世の創作に分けて整理。「頭を下げてほしい」という依頼の文言はどこから来たのか、秀吉が訪ねた理由とあわせて確度別に解説します。
旭姫(朝日姫)はなぜ徳川家康に嫁いだのか。小牧・長久手の戦い後も臣従しない家康を、豊臣秀吉が妹の輿入れと母・大政所の人質下向で懐柔した経緯を、年表と諸説(離縁の時期・前夫の名)を交えて史料から整理します。
関ヶ原の戦いで勝った徳川家康は、なぜ豊臣家をすぐに滅ぼさなかったのか。秀頼の65万石への縮小、官位の推移、千姫の婚姻、二条城会見、方広寺鐘銘事件まで、大坂の陣に至る経緯を年表と史料・研究者の見解で整理します。
島津義弘は関ヶ原でなぜ敗れても薩摩を守れたのか。家康本陣付近を突破した「島津の退き口」と、兄・義久と嫡男・忠恒による約2年の交渉で約61万石の本領を守った経緯を、後世の逸話と史実を区別して整理します。
石田三成と徳川家康はなぜ対立したのか。秀吉の死から私婚問題、七将事件、会津征伐、直江状、小山評定を経て関ヶ原に至る経緯を年表で整理し、史料で確かめられることと研究者の間で見解が分かれることを分けて解説します。
小牧・長久手の戦いで三好信吉はなぜ白山林で敗れたのか。17歳の総大将が率いた別動隊の配置、徳川軍の追撃、敗走までを公的資料をもとに整理します。
徳川家康はなぜ今川家での人質時代を耐え抜けたのか。冷遇されていたという通説の出どころと、元服・婚姻・教育という厚遇の実態、岡崎に残った家臣団、桶狭間での独立までを史実で整理します。
天正13年(1585年)、岡崎城代の石川数正はなぜ徳川家康のもとを去り豊臣秀吉に仕えたのか。政争敗北説・自発的転身説・偽装出奔説を確度別に整理し、研究者の見解と典拠を示します。
徳川家康が豊臣秀吉への臣従をなぜ数年も拒み続けたのかを、天正11年(1583年)の大坂城築城から天正14年(1586年)の上洛まで、史料と研究に基づいて整理します。小牧・長久手の戦いの評価や当時の領国についても確度を示して解説します。
天正7年(1579年)、徳川家康は正室・築山殿と嫡男・松平信康を失いました。信長が命じたとする通説の典拠は江戸期の『三河物語』で、同時代の一次史料に信長の命令は出てきません。史料でわかることと諸説が割れる点を整理します。