三好信吉はなぜ白山林で敗れた?小牧・長久手の戦いで17歳の総大将に起きたこと
小牧・長久手の戦いで三好信吉はなぜ白山林で敗れたのか。17歳の総大将が率いた別動隊の配置、徳川軍の追撃、敗走までを公的資料をもとに整理します。

小牧・長久手の戦いで三好信吉はなぜ白山林で敗れたのか。17歳の総大将が率いた別動隊の配置、徳川軍の追撃、敗走までを公的資料をもとに整理します。
徳川家康はなぜ今川家での人質時代を耐え抜けたのか。冷遇されていたという通説の出どころと、元服・婚姻・教育という厚遇の実態、岡崎に残った家臣団、桶狭間での独立までを史実で整理します。
天正13年(1585年)、岡崎城代の石川数正はなぜ徳川家康のもとを去り豊臣秀吉に仕えたのか。政争敗北説・自発的転身説・偽装出奔説を確度別に整理し、研究者の見解と典拠を示します。
徳川家康が豊臣秀吉への臣従をなぜ数年も拒み続けたのかを、天正11年(1583年)の大坂城築城から天正14年(1586年)の上洛まで、史料と研究に基づいて整理します。小牧・長久手の戦いの評価や当時の領国についても確度を示して解説します。
天正7年(1579年)、徳川家康は正室・築山殿と嫡男・松平信康を失いました。信長が命じたとする通説の典拠は江戸期の『三河物語』で、同時代の一次史料に信長の命令は出てきません。史料でわかることと諸説が割れる点を整理します。
織田信雄は自らの宿老3名を秀吉への内通を疑って誅殺し、徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いに至りました。対立の発端と経緯、いまも見解が分かれる論点を、公的資料と研究者の見解から整理します。