佐々成政の「さらさら越え」は史実なのか|史料からわかること
厳冬の北アルプスを越えたと語られる佐々成政の「さらさら越え」。浜松へ赴き織田信雄と対面した事実と、後世の軍記物や歌舞伎で広まった脚色を史料から切り分け、立山ルート説と飛騨ルート説の論争もあわせて整理します。

厳冬の北アルプスを越えたと語られる佐々成政の「さらさら越え」。浜松へ赴き織田信雄と対面した事実と、後世の軍記物や歌舞伎で広まった脚色を史料から切り分け、立山ルート説と飛騨ルート説の論争もあわせて整理します。
天正7年(1579年)、徳川家康は正室・築山殿と嫡男・松平信康を失いました。信長が命じたとする通説の典拠は江戸期の『三河物語』で、同時代の一次史料に信長の命令は出てきません。史料でわかることと諸説が割れる点を整理します。
豊臣秀長と千利休はどんな関係だったのか。天正14年(1586年)の「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相」という言葉を軸に、二人の役割分担と、秀長の死が利休の運命に与えた影響を、史料の確度を分けて整理します。
豊臣秀長は本当に兄を支えるだけの補佐役だったのか。四国征伐・九州平定で総大将を務めた実績、約100万石の領国経営、52歳での死をめぐる「長生きしていれば」説まで、史料と最新研究にもとづいて整理します。