上田城
History

真田昌幸はなぜ徳川家康の大軍を二度も撃退できたのか|史実を整理する

※本記事にはPR・広告リンクが含まれます。

結論

信濃・上田の真田昌幸は、わずかな兵力しか持たないにもかかわらず、なぜ徳川家康の大軍を二度も退けられたのでしょうか。この記事では、その理由を史料の確かさを区別しながら整理します。

結論から言うと、昌幸は上田城という「地の利」と、少ない兵で戦うことを前提にした誘導・挟撃の戦術、そして大国の間を渡り歩く外交を組み合わせて、天正13年(1585年)の第一次上田合戦と慶長5年(1600年)の第二次上田合戦で徳川方を撃退したと考えられています。

ただし「寡兵で大軍を圧倒した」という印象を支える兵力数には資料ごとに大きな幅があり、第二次合戦が徳川秀忠の関ヶ原遅参の主因だったかどうかも研究者の間で見方が分かれています。

真田昌幸の肖像画(東京大学史料編纂所所蔵、パブリックドメイン)

二度の上田合戦を数字で比較する

まず、二度の上田合戦を一覧で比べます。兵力は後述のとおり資料によって幅がある数字で、確定値ではありません。

項目 第一次上田合戦 第二次上田合戦
年 天正13年(1585年)閏8月 慶長5年(1600年)9月
徳川方の指揮 鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉ら 徳川秀忠
徳川方の兵力(とされる数) 約7,000 3万〜3万8,000
真田方の兵力(とされる数) 2,000未満 2,500〜5,000
きっかけ 沼田領の引き渡し要求を拒否 「犬伏の別れ」で西軍につく
結果 徳川方を撃退 秀忠軍は城を落とせず西進

上田合戦とは|二度の合戦を年表で整理

第一次上田合戦(天正13年/1585年)の経緯

天正13年(1585年)閏8月、家康は昌幸に沼田領を北条氏へ引き渡すよう求めました。昌幸はこれを拒み、以前から進めていた上杉景勝との同盟を正式に結んで徳川方から離れたとされます(戦国ヒストリー)。これが第一次上田合戦(神川合戦)の直接の引き金と考えられています。

徳川方は鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らが率いて上田城へ攻め寄せましたが、撃退されたと広く紹介されています。

第二次上田合戦(慶長5年/1600年)の経緯と「犬伏の別れ」

慶長5年(1600年)7月下旬、昌幸と次男・信繁(幸村)は、徳川家康による会津(現・福島県)征伐に従軍していました。その途中、下野国犬伏(現・栃木県佐野市。上田から見ると南東にあたる地)で、二人は石田三成方(西軍)につくことを決めます。

一方、徳川方に残る長男・信幸(信之)とはここで袂を分かち、昌幸・信繁は上田へと引き返しました。この親子・兄弟の決別が「犬伏の別れ」です。同じ「六文銭」の旗印を掲げながら、東西に分かれて戦うことになった点も、この合戦の特異さを物語ります。

真田家の家紋「六文銭」(パブリックドメイン)

このころ天下の行方は、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍による「関ヶ原の戦い」(美濃国・現在の岐阜県関ヶ原町での決戦)にかかっていました。徳川秀忠は中山道を通ってこの関ヶ原へ向かう途中で、上田城を攻略しようとします。秀忠の進路を地理関係で整理すると、上田城から見て東側にある碓氷峠(現・群馬県と長野県の県境)を越え、さらに上田城の東方に位置する小諸城に本陣を置いたうえで、目の前の上田城を攻めた、という位置関係になります(戦国ヒストリー)。しかし秀忠軍は城を落とせないまま、家康からの上洛(京都へ向かうこと)命令を受けて西へ進み、関ヶ原の本戦(慶長5年9月15日〈旧暦〉)には間に合いませんでした。

なぜ寡兵の真田軍が徳川の大軍を退けられたのか|戦術・地の利・外交

上田城の縄張りと城下への誘導戦術

上田城は天正11年(1583年)に昌幸が築いた平城で、上田盆地のほぼ中央(現・長野県上田市二の丸)にあると考えられています(上田市 上田城)。平城とは、山ではなく平地に築かれた城のことです。

第一次合戦で昌幸は、徳川勢を城下の狭い道や柵、空堀(水のない堀)へ誘い込んだとされます。大軍でも狭い場所では一度に戦える人数が限られ、数の差が生きにくくなります。

上田城

出典: “Ueda Castle” by Tomorobi / CC BY-SA

支城・砥石城との連携

城下で足止めした徳川勢に対し、支城(本城を支える周辺の城で、上田城から見て北東方向にあたります)の砥石城に置いた信幸の隊などが側面や背後から攻撃したとされています(touken-world.jp 上田城の解説)。本城と支城の連携で、正面の兵力差を挟み撃ちで補った形です。

上田城は2度にわたって徳川方の攻撃を退けた城として知られ、「実戦で2度の攻城を退けた例は他に見られない」とも紹介されています。

上杉・北条との外交で立場を守った昌幸の戦略眼

昌幸の強みは戦場の外にもありました。第一次合戦の前には徳川から上杉へ乗り換え、単独で大国と向き合わない状況を作っています。

天正14年(1586年)8月7日付で石田三成・増田長盛が上杉景勝に宛てた連署状(上杉家文書)には、昌幸を「表裏比興の者」と評した文言があります(武将ジャパン)。節操なく立場を変える食わせ者、という意味で、豊臣政権が昌幸を警戒していたことを示す同時代の文書です。裏を返せば、それだけ巧みに立場を変えて生き残った証とも読めます。

史実と通説の違い|兵力数・秀忠激怒の逸話をどう見るか

第一次合戦の「徳川方約7,000、真田方2,000未満」という数字は、主に『三河物語』に基づきます。同書は徳川方の旧臣・大久保忠教による回顧録で、独立した別系統の記録による裏付けは確認できていません。第二次合戦の兵力も、資料によって数字が一致しません。

戦国期の動員兵力の記録には誇張が含まれやすいとされます。別府大学教授の白峰旬氏は、2025年に「関ヶ原の戦いにおける諸将の軍役人数(兵力数)についての予察的考察」(『國史纂集』27号)という論文を発表し、関ヶ原の戦いにおける諸将の兵力数を再検討しています(researchmap 白峰旬、プロフィールページ。個別論文へのリンクは確認できていないため、論文タイトルは本文中に明記しています)。数字は「そう伝えられている目安」として読むのが無難です。

有名な逸話にも注意が必要です。

  • 神川の水攻め: 真田方が神川の堰を切り、退く徳川勢を押し流したと伝わります。ただし同時代史料での直接の裏付けは確認できず、後世の軍記物・講談による脚色を含む可能性があります。
  • 秀忠への家康の激怒: 遅参した秀忠に家康が面会を拒んだという話は広く流布していますが、後世の編纂物による誇張の可能性が指摘されています。
  • 真田十勇士: 猿飛佐助・霧隠才蔵らが活躍する話がありますが、江戸期以降の講談や立川文庫に由来するもので、同時代史料の裏付けはなく、上田合戦の史実には登場しません。

諸説・論争点|秀忠の関ヶ原遅参の主因は何か

第二次上田合戦の評価を左右するのが、秀忠の遅参の原因です。ここでは二つの見方を並べます。

説 主な主張 論拠・紹介元
足止め説 上田城の攻略に手間取り日数を費やしたことが遅参の主因 伝統的な通説。歴史系メディアや観光解説で広く紹介
複合要因説 中山道進軍は家康の当初命令に沿った行動で、上洛督促の使者が長雨による河川の増水で遅れたことなど複数の事情が重なった 歴史学者・渡邊大門氏の署名記事など

渡邊大門氏は、家康が軍を東海道と中山道に分けたのはもともと不測の事態への備えだったと指摘し、後世の編纂物が秀忠の失態をことさら強調した可能性を論じています(Yahoo!ニュース エキスパート)。白峰旬氏も、「慶長5年の上杉討伐における徳川家康の軍事オプションについて」(『別府大学アジア歴史文化研究所報』25号、2025年)という論文で、当時の軍事行動の前提を検討しています。

一方で、秀忠軍が上田城を落とせずに時間を使ったこと自体は、両説とも否定していません。上田での足止めが「唯一の原因」か「要因の一つ」かが論点であり、現時点ではどちらかに決着しているとは言えません。

徳川秀忠像(松平西福寺蔵、パブリックドメイン)

ゆかりの地・史跡|上田城跡公園を訪ねる

上田城跡は長野県上田市二の丸にあります。開園時間や施設の公開状況は変わることがあるため、訪れる前に上田市の上田城公式ページで最新情報を確認してください(2026-09-26時点)。

史料をさらに確かめたい方には、上田市立博物館編の刊行物『秀吉と真田 抄録版』(2011年)があります。現地で城の立地を歩いてみると、城下へ誘い込む戦い方のイメージがつかみやすくなるはずです。

まとめ

真田昌幸が徳川の大軍を二度退けられた理由は、上田城と砥石城を使った誘導・挟撃の戦術、そして上杉と結ぶなど大国の間で立場を守る外交にあったと考えられています。一方で、兵力差の数字や秀忠遅参の原因、神川の水攻めや真田十勇士といった話は、史料の確かさを分けて読む必要があります。

もっと深く知りたい方は、真田家研究の専門書で史料に基づく昌幸像に触れてみてください。上田城跡を訪ねる際は、公式サイトで最新の公開情報を確認してから出かけましょう。

参考文献・典拠

画像出典: Wikimedia Commons「Sanada-Masayuki.jpg」(パブリックドメイン)、「Ueda Castle.JPG」(Tomorobi / CC BY-SA)、「Hidetada2.jpg」(パブリックドメイン)、「Japanese_Crest_rokumonsen.svg」(パブリックドメイン)

おすすめ商品

記事に関連するおすすめ商品をご紹介します。

Supported by Rakuten Developers

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です