曹操はなぜ赤壁で敗れたのか|正史『三国志』と『三国演義』の違いを整理する
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赤壁の戦いといえば、諸葛亮が東南の風を呼び、黄蓋の火船が曹操の大船団を焼き払う。そんな場面を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
ところが、こうした名場面の多くは、後の時代の小説『三国志演義』(三国演義)で広まったものです。歴史書である正史『三国志』の記録は、ずっと簡潔です。
この記事では「曹操はなぜ赤壁の戦いで大敗したのか」という疑問について、正史に書かれていることと演義の創作を分けて整理します。
結論
正史『三国志』に沿って読むと、曹操の撤退は一つの原因ではなく、いくつかの要因が重なった結果と読めます。
- 赤壁で孫権・劉備の連合軍と交戦し、不利になった
- 黄蓋の献策による火攻めを受けた(呉書・周瑜伝の記述)
- 軍中で疫病が大流行し、多くの兵が死んだ(魏書・武帝紀などの記述)
一方、諸葛亮が祭壇で風を呼ぶ「借東風」や、周瑜が黄蓋を鞭打つ「苦肉の計」の場面は、正史には見当たりません。後世の講談や『三国志演義』で作られた場面とする解説が複数あります。
火攻めと疫病のどちらが決定打だったのかは、史料の巻によって描き方が異なり、断定できません。以下、順を追って見ていきます。

『三才図会』(明代)所収の曹操像。パブリックドメイン(出典: Wikimedia Commons)
赤壁の戦いまでの流れ(年表)
赤壁の戦いは、後漢の献帝の時代、建安13年(西暦208年)に起きたと考えられています。まずは戦いに至る流れを、正史の記述をもとに確認します。
香港教育局の中国史教材などをもとに、主な出来事を年表にまとめました。月日には資料による違いがあるため、確定していない部分はその旨を記しています。
なお、正史『三国志』は魏・呉・蜀それぞれの歴史をまとめた「魏書」「呉書」「蜀書」の三部構成からなる紀伝体の史書です。人物ごとの記録は「〇〇紀」「〇〇伝」としてまとめられています。
本文に出てくる「武帝紀」「周瑜伝」「先主伝」は、こうした巻に収められた各伝を指します。
| 時期 | 出来事 | 主な典拠 |
|---|---|---|
| 建安13年(208年)旧暦7月 | 曹操が荊州へ向けて南下を開始 | 香港教育局教材 |
| 同年 | 荊州の劉表が病没し、子の劉琮が曹操に降伏 | 香港教育局教材 |
| 同年 | 劉備が漢水を東へ渡って退避。夏口で魯粛の仲介により孫権側と合流 | 香港教育局教材 |
| 同年(月日は諸説) | 赤壁で交戦し曹操軍が不利に。黄蓋が偽りの降伏と火攻めを実行 | 『三国志』武帝紀・周瑜伝 |
| 同年(月日は諸説) | 軍中で疫病が流行。曹操は烏林から華容道を経て江陵へ撤退 | 『三国志』武帝紀ほか |
交戦と撤退の時期について、香港教育局の教材は旧暦12月としています。ただし一般的な解説には10月・11月頃とするものもあり、月日は確定していません。
曹操の南下と荊州接収
荊州の支配者・劉表が病没すると、跡を継いだ子の劉琮は曹操に降伏しました。曹操は荊州をほぼ戦わずに接収し、長江沿いに軍を進めたと考えられています。
孫権・劉備の同盟成立
曹操軍の追撃を受けた劉備は、漢水を東へ渡って退避しました。その後、孫権配下の魯粛の仲介によって、夏口で孫権側と合流し同盟したとされています。
正史で赤壁の戦いを最も詳しく記すのは、呉(孫権側)の歴史をまとめた呉書の「周瑜伝」とされます。
赤壁での交戦と火攻め
周瑜伝には、黄蓋が曹操軍への火攻めを献策し、偽りの降伏の書状を送った経緯が記されていると考えられています(The News Lens)。
また、正史に付けられた注釈である裴松之注(はいしょうしちゅう)が引く『江表伝』には、火攻めの際に東南の風が吹いたという記述があるとされます。
『江表伝』は、正史『三国志』本文への裴松之による注釈で引用される史書です。風が吹いたこと自体は、注釈の史料に記録が残っているわけです。
疫病の流行と曹操の撤退
魏(曹操側)の歴史をまとめた魏書の「武帝紀」は、赤壁の結末を次のように記しています。
公至赤壁,與備戰,不利。於是大疫,吏士多死者,乃引軍還。
(曹操は赤壁に至り、劉備と交戦して不利となった。そこへ軍中で疫病が大流行し、兵・官吏の多くが死んだため、軍を引き揚げた)
疫病の記述はここだけではありません。呉書・呉主伝には曹操軍について「士卒饑疫,死者大半」(兵士は飢えと疫病で半数以上が死んだ)とあると考えられています。
蜀書・先主伝にも、戦後「又疾疫,北軍多死」(さらに疫病が起き、曹操軍に死者が多かった)と記されているとされます(網易)。
曹操自身も後に孫権へ送った書簡で、「値有疾病」(たまたま疾病があったため)自ら船を焼いて退いたと述べたと伝わります。敗れた曹操は烏林から撤退し、華容道を経て江陵へ退いたと伝えられています。
正史と『三国志演義』の創作の違い
ここが本記事の中心です。よく知られた場面を、正史(裴松之注を含む)に記述があるかどうかで整理しました。
| 場面・要素 | 正史『三国志』での扱い | 史実性の判定 |
|---|---|---|
| 黄蓋の偽りの降伏と火攻めの献策 | 呉書・周瑜伝に記述 | 正史本文に基づく |
| 疫病による多数の死者 | 武帝紀・呉主伝・先主伝に記述 | 複数巻で一致 |
| 東南の風が吹いたこと | 裴松之注所引『江表伝』に記述があるとされる | 注釈の史料にある |
| 諸葛亮が風を呼ぶ「借東風」 | 記述は見当たらない | 後世の創作 |
| 周瑜が黄蓋を鞭打つ「苦肉の計」 | 本文に記述は見当たらない | 後世の創作 |
| 鉄鎖で船をつなぐ「連環の計」 | 正史本文での裏付けは確認できない | 断定できない |
| 曹操軍「80万」 | 『江表伝』で曹操が自称 | 誇張とみる見方が多い |
「借東風」は後世の創作
諸葛亮が祭壇を築いて東南の風を呼んだという逸話がありますが、正史には諸葛亮と風を結びつける記述が見当たりません。
この場面は元代の講談本『三国志平話』に原型があり、14世紀頃に成立した『三国志演義』で完成したもので、同時代史料の裏付けはないとする解説が複数あります(風傳媒、文春オンライン(本の話))。
「苦肉の計」の鞭打ちも後世の創作
周瑜が黄蓋をわざと鞭打ち、恨みを抱いたように見せて偽の降伏を信じさせた、という逸話もよく知られています。
この場面について、史料と創作の関係を整理すると次のとおりです。
- 正史の周瑜伝・黄蓋伝の本文には、鞭打ちの場面は確認できません
- 演義や、それ以前の講釈・戯曲で作られた場面とされ、同時代史料の裏付けはありません(サライ.jp)
- 正史にあるのは、黄蓋が火攻めを献策し偽の降伏書を送ったところまでです
諸説・論争点:史料で記述が分かれる点
ここで扱うのは、研究者どうしの明確な論争というより、史料や解説によって記述が分かれ、確定できない点です。どちらか一方に決めつけず、それぞれの記述を紹介します。
曹操軍の兵力は本当に80万だったのか
裴松之注が引く『江表伝』には、曹操が降伏を迫る書簡で自軍を「歩兵・騎兵合わせて80万(号して100万)」と称したという記述があります。
一方、現代の一般的な解説では、この数字は誇張とみられ、実数はずっと少なかったとする見方が広く示されています(世界史の窓)。
ただし、具体的な実数は資料によって15万〜24万程度などと幅があります(世界史の窓、The News Lensなどの解説による)。
学術論文レベルの確定した定説は確認できておらず、「80万対5万」といった対比はそのまま史実とは受け取らないほうがよいでしょう。
撤退の主因は疫病か、火攻めか
魏書・武帝紀は、交戦の不利に続いて疫病の大流行を撤退の理由として記しています。一方、呉書・周瑜伝は黄蓋の火攻めの経緯を詳しく描いています。
疫病を重く見る読み方と、火攻めによる軍事的敗北を重く見る読み方があり得ますが、どちらが主因かは断定できません。なお、曹操の「疾病のため」という書簡は、当事者自身の説明である点も踏まえておきたいところです。
疫病の正体についても、腸チフス・マラリア・住血吸虫症などの推測を紹介する記事がありますが、裏付けとなる研究は確認できず、特定はできません。
曹操軍に船はあったのか
『三国志』系統の記述では、曹操軍(または接収した荊州水軍)の船が使われたとされます。一方、『英雄記』には、曹操軍に自前の船がなく竹筏で渡ろうとしたという記述があるとされ、両者は一致しません。
『英雄記』も、裴松之注に引かれる史書の一つです。
演義で有名な、船を鉄鎖でつないだ「連環の計」についても、正史本文での裏付けは確認できていません。こうした点は、今後の研究の進展を待つ部分といえます。
赤壁の戦いのゆかりの地・赤壁古戦場
ここまでで「曹操はなぜ敗れたのか」という本題は一通り整理できました。ここからは、敗因を踏まえた上で現地に興味を持った方向けの補足情報です。
現在、赤壁の戦いの古戦場として最有力視されているのは、湖北省咸寧市赤壁市の西南、長江南岸にある地と考えられています。
この市はもともと蒲圻市という名で、1998年6月11日に国務院の認可を経て「赤壁市」へ改称されました(All About)。
現地は「赤壁古戦場風景区」として整備されており、次のような見どころがあるとされます(Our China Story)。
- 磨崖石刻の「赤壁」の文字
- 拝風台
- 鳳雛庵
- 赤壁大戦陳列館
開園時間・入場料・遊覧船の運航状況は変わることがあり、遊覧船が運休していたという利用者の報告もあります。2026-10-14時点の最新情報は確認できていないため、訪れる際は公式サイトや現地の観光案内で確認してください。
まとめ
正史『三国志』の武帝紀は、曹操が赤壁で劉備と交戦して不利になり、軍中の疫病で多くの兵を失って引き揚げたと記しています。呉書・周瑜伝は、黄蓋の偽降と火攻めを詳しく伝えています。
どちらを主因とみるかは史料の巻で強調点が異なり、断定はできません。一方で「借東風」や「苦肉の計」の鞭打ちは、後世の講談や『三国志演義』で生まれた場面とされています。
なお、この赤壁での敗北によって曹操による天下統一の勢いは止まり、以後、魏・呉・蜀による三国時代へと向かっていったという見方が広く知られています。
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参考文献・典拠
- 陳寿著・裴松之注『三国志』魏書・武帝紀、呉書・周瑜伝・呉主伝、蜀書・先主伝(原文の引用は下記Web資料による)
- 陳寿著・裴松之注、今鷹真・井波律子・小南一郎ほか訳『正史 三国志1 魏書1』ちくま学芸文庫、筑摩書房(ISBN 978-4-480-08041-7)|筑摩書房 書誌ページ
- 渡邉義浩『三国志 演義から正史、そして史実へ』中公新書2099、中央公論新社
- 香港教育局 中国史教材(赤壁之戰)
- The News Lens(赤壁の戦いと正史の記述)
- 網易(三国志原文と疫病の記述)
- 風傳媒(借東風の由来)
- 文春オンライン 本の話
- サライ.jp(苦肉の計)
- 世界史の窓(赤壁の戦い)
- All About(赤壁古戦場)
- Our China Story(赤壁古戦場)
