1867年に大坂で撮影された徳川慶喜の肖像写真
History

鳥羽・伏見の戦いはなぜ起きたのか|大政奉還後の史実を整理する

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慶応3年(1867年)に徳川慶喜が政権を朝廷へ返したのに、なぜわずか3か月ほどで京都の南で戦いが始まったのでしょうか。平和的に政権が移ったはずでは、と不思議に思う方も多いはずです。

この記事では、大政奉還から鳥羽・伏見の戦いの開戦までを、自治体や研究者の資料に基づいて順に整理します。裏付けの強さが違う情報は、はっきり書き分けてお伝えします。

結論

「鳥羽・伏見の戦いはなぜ起きたのか」を一言でまとめると、王政復古の後に決まった「辞官納地」に旧幕府側が強く反発し、江戸での衝突をきっかけに軍事行動へ転じたため、と考えられています。

辞官納地とは、慶喜に内大臣の官職を辞めさせ、徳川家の領地の一部を返納させるという決定です。開戦までの流れは次のとおりです。

  • 慶応3年10月14日、慶喜が政権返上を上表(大政奉還)。ただし将軍職はこの時点では辞めていない
  • 12月9日、王政復古の大号令。同夜の小御所会議で辞官納地が決まる
  • 12月25日、江戸で薩摩藩邸焼討事件が起きる
  • 慶応4年1月2日、旧幕府軍が「討薩の表」を掲げて京都へ進発
  • 1月3日(新暦1868年1月27日)、鳥羽と伏見で新政府軍と衝突

大政奉還そのものが戦いを生んだのではありません。その後、徳川家の地位と領地をどう扱うかで対立が深まったことが、直接の背景と考えられています。

なお、開戦の性質(計画的な挑発か、偶発的な衝突の拡大か)については、研究上の確かな典拠が見つかっていません。詳しくは後述の「諸説・論争点」で扱います。

本文

ここから、結論で示した「大政奉還→王政復古の大号令と小御所会議→辞官納地への反発→江戸薩摩藩邸焼討事件→旧幕府軍の進発→開戦」という流れを、出来事ごとに順番に確認していきます。

日付は旧暦(当時の暦)を基本とし、新暦(現在の暦)が資料で確認できるものだけを併記します。まずは年表で全体の流れをつかんでから、各出来事の詳細に進みます。

大政奉還から開戦までの流れ(年表)

まず全体像を表で確認しましょう。いずれも自治体や研究者の資料で通説として示されている内容です。

和暦(旧暦) 西暦(新暦) 出来事
慶応3年10月14日 1867年11月9日 慶喜が政権返上を上表。翌15日に朝廷が承認
慶応3年12月9日 1868年1月3日 王政復古の大号令。同夜の小御所会議で辞官納地を決定
慶応3年12月25日 1868年1月19日 江戸薩摩藩邸焼討事件
慶応4年1月2日 (資料で未確認) 旧幕府軍が「討薩の表」を掲げ京都へ進発
慶応4年1月3日 1868年1月27日 鳥羽・伏見で戦闘が始まる
慶応4年1月5日 (資料で未確認) 新政府軍の陣頭に錦の御旗が掲げられる
慶応4年1月6日夜〜7日朝 (資料で未確認) 慶喜が大坂城を出て、開陽丸で江戸へ向かう

大政奉還(慶応3年10月14日)

慶喜は慶応3年10月14日(1867年11月9日)に政権返上を朝廷へ申し出て、翌15日に承認されたとされます。経緯は当サイトの大政奉還の記事でも詳しく扱っています。

1867年に大坂で撮影された徳川慶喜の肖像写真

ここで押さえたいのは、慶喜がこの時点で将軍を辞めたわけではない点です。佛教大学の青山忠正教授は、京都市公式サイトのコラムで次のように説明しています。

よく誤解されることがあるが、これで慶喜は将軍を辞任したわけではない。将軍の辞表も24日に提出するが、受理は保留された。慶喜は、12月9日の政変で将軍辞任を認められるまで、れっきとした征夷大将軍であった。

(出典: 青山忠正「第1回 大政奉還の真相」京都市)

王政復古の大号令と小御所会議(慶応3年12月9日)

慶応3年12月9日(新暦1868年1月3日)、王政復古の大号令が出されました。摂政・関白と幕府を廃止し、総裁・議定・参与の「三職」を置くと宣言したものと考えられています。

同じ日の夜には、京都御所の小御所で三職の中心メンバーが集まり国政を話し合う「小御所会議」が開かれ、慶喜の辞官納地が決まりました(鹿児島県公式サイト)。

官職と領地の両方を求める決定に、旧幕府側は強く反発したとされます。

江戸薩摩藩邸焼討事件(慶応3年12月25日)

対立は京都だけでは終わりませんでした。江戸では薩摩藩邸に出入りする浪士らによる強奪や放火(御用盗)が続き、市中の治安が悪化していたと考えられています。

そのなかで12月25日(新暦1868年1月19日)、庄内藩を中心とする勢力が薩摩藩邸を襲って焼き払いました。この事件の背景は、奈倉哲三氏の論文(跡見学園女子大学紀要)で詳しく検討されています。

旧幕府軍の進発と開戦(慶応4年1月2日〜3日)

焼討事件の知らせが大坂の旧幕府方に届くと、幕臣らの怒りが高まったとされます。慶応4年1月2日、旧幕府軍は薩摩を討つ趣旨の「討薩の表」を掲げ、京都へ向けて進みました。

翌1月3日(新暦1868年1月27日)、京都南郊の鳥羽(小枝橋付近)と伏見で、旧幕府軍と薩摩・長州の新政府軍が衝突します。これが新政府軍と旧幕府勢力の最初の武力衝突で、戊辰戦争の始まりと位置づけられています(京都市観光協会)。

錦の御旗と慶喜の大坂退去(1月5日〜7日)

1月5日、新政府軍の陣頭に「錦の御旗」が掲げられ、旧幕府軍は朝敵(天皇の敵)とみなされる立場に置かれたと考えられています。

旗は岩倉具視らの発案で、品川弥二郎が京都の西陣で材料を集めて作ったと伝わります(山口県観光サイト、Newsweek日本版)。ただし、掲げられた正確な時刻や地点まで一次史料で確かめた資料は、今回見つかりませんでした。

慶喜は戦闘に加わらず大坂城にとどまっていましたが、1月6日夜に城を出て、翌7日朝に軍艦「開陽丸」で江戸へ向かったとされます。

史実と一般に語られるイメージの違い

鳥羽・伏見の戦いは、わかりやすい物語として語られがちです。よく聞くイメージと、今回の資料から言えることを比べてみます。

鳥羽・伏見の戦いを描いた錦絵「毛利嶋山官軍大勝利之図」(照皇斎国広画、1868年)

よくあるイメージ 資料から言えること
大政奉還で慶喜はすべてを手放した 政権は返したが、12月9日の政変までは征夷大将軍のままだった
辞官納地が決まった時点で開戦は避けられなかった 決定から開戦までに江戸薩摩藩邸焼討事件があり、それが進発の引き金と考えられている
数で勝る旧幕府軍が負けたのは不思議 数では旧幕府軍が上回ったが、装備と士気で勝る新政府軍が優位に進めたとされる

兵力の差は本当にあったのか

兵力は旧幕府軍が約1万〜1万5000人、新政府軍が約4500〜5000人とされます(鹿児島県公式サイト)。複数の資料で近い数字が挙がっていますが、どれも概説的な記述です。

数字には資料ごとに幅があり、『復古記』などの編纂史料そのもので確かめた値ではありません。目安として受け取るのがよいでしょう。

死傷者は新政府軍約110名、旧幕府軍約280名という記録も見られます。ただし、確認できたのは暦サイトなど単一の出典だけで、学術的な裏付けは取れていません。

諸説・論争点

鳥羽・伏見の戦いには、議論が分かれそうな点がいくつかあります。ただ今回の調査では、研究者や研究機関が二つの説をはっきり対立させて論じた典拠までは確認できませんでした。そのため、ここでは「わかっていないこと」として扱います。

論点 現時点での扱い
開戦は薩摩側の計画的な挑発か、小枝橋での偶発的な衝突か 通俗的な解説はあるが、研究上の典拠は未確認。どちらとも断定しない
辞官納地の条件はどこまで緩和されていたか 12月28日の三職会議で条件が大きく緩み、慶喜も新政権参加を事実上受け入れていたとする記述が個人運営のサイトにある。自治体・研究機関での裏付けは未確認
慶喜が大坂城を出て江戸へ向かった真意 恭順、内乱拡大の回避、劣勢からの退避など、歴史作家らの解釈はある。慶喜自身の真意は不明

1867年に大坂で撮影された徳川慶喜の肖像写真。大坂城退去後に江戸へ向かった真意は研究上明らかになっていない

慶喜の退去については、当サイトの大政奉還の記事と同じく、評伝やメディアの解釈を史実として扱わない方針です。新しい研究が確認できたら、この節を更新します。

ゆかりの地・史跡

戦いの舞台は、いまの京都市伏見区周辺です。訪ねる前に、開門時間や公開状況を各施設の公式情報で確認してください。

伏見奉行所跡

伏見では、新選組が伏見奉行所に立てこもって戦いました。しかし薩摩藩兵の砲撃などで敗れ、奉行所は炎上したとされます(京都市観光協会)。

城南宮

城南宮は、新政府軍(薩摩藩)が布陣した地とされます。2017年には伏見区が、戦いから150年の記念講演「絵と図で見る幕末維新―鳥羽伏見の戦いを中心に―」を開きました。

講師は城南宮の宮司・鳥羽重宏氏で、城南宮が所蔵する「錦之御旗」関連の資料も紹介されたと、伏見区の広報紙が伝えています。

二条城

二条城は、慶喜が大政奉還を表明した場所として知られます。鳥羽・伏見の戦いの前段となる出来事の舞台で、あわせて訪ねると流れをつかみやすくなります。

戦いの後の戊辰戦争全体の経過や、各藩の内部事情については、この記事では扱いません。

まとめ

鳥羽・伏見の戦いは、大政奉還だけで起きたわけではありません。王政復古の大号令と小御所会議で決まった辞官納地への反発に、江戸薩摩藩邸焼討事件が重なって、旧幕府軍の進発と開戦につながったと考えられています。

一方で、開戦が計画的だったのか、慶喜がなぜ江戸へ戻ったのかは、確かな研究上の典拠が見当たらない論点です。物語として語られる話に出会ったら、出典の性格を確かめてみてください。

前段の経緯をもっと知りたい方は、大政奉還の記事もあわせてお読みください。下の参考文献から、元の資料にあたってみるのもおすすめです。

参考文献・典拠

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