徳川慶勝の肖像写真
History

第一次長州征伐はなぜ起きたのか|禁門の変後の史実を整理する

※本記事にはPR・広告リンクが含まれます。

第一次長州征伐はなぜ起きたのか|禁門の変から6日で朝命が出た経緯

元治元年(1864年)7月18日(旧暦)、長州藩兵が京都御所へ攻め込んだ禁門の変(蛤御門の変)が起こりました。

その6日後の7月23日(旧暦)、朝廷から長州追討の令旨が出されたと考えられています(コトバンク「長州征伐」)。

これを受けて幕府は翌24日、中国・四国・九州の21藩に出兵を命じ、他の藩には京都・畿内の守備を命じました。これが第一次長州征伐のはじまりです。

つまり第一次長州征伐は、禁門の変という単独の事件に対する報復ではなく、「朝敵となった長州藩を朝命によって討つ」という、禁門の変の直接の延長線上に組み立てられた軍事行動でした。

経緯を年表で整理

第一次長州征伐の主な出来事を、元号と西暦を併記した年表で整理します(出典はいずれも本文末尾の参考文献・典拠を参照)。

時期 出来事
元治元年(1864年)7月18日 禁門の変。長州藩兵が京都御所を攻撃し敗退
元治元年(1864年)7月23日 朝廷が長州追討の令旨を出す
元治元年(1864年)7月24日 幕府が中国・四国・九州の21藩に出兵を命令。征長総督に前尾張藩主・徳川慶勝、副将に越前藩主・松平茂昭が就任
元治元年(1864年)8月5日〜7日 米英仏蘭の四国連合艦隊が下関の長州藩砲台を攻撃(馬関戦争・四国連合艦隊下関砲撃事件)
元治元年(1864年)8月14日 長州藩と四国艦隊側が講和
元治元年(1864年)12月 長州藩内の保守派が三家老・四参謀を処分し、幕府へ恭順の意を表す
元治元年(1864年)12月27日 幕府軍(征長軍)が戦わずに撤兵令を下す

徳川慶勝の肖像写真

出典: Wikimedia Commons(徳川林政史研究所所蔵、PD-Japan)

征長総督を務めたのは、前尾張藩主の徳川慶勝です。副将には越前藩主の松平茂昭が就きました(コトバンク「長州征伐」)。

見逃せないのは、この長州征伐の動員と同じ元治元年(1864年)8月、長州藩がまったく別の戦いにも直面していたことです。

長州藩は国内と国外から同時に挟撃されていた

アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊が、下関の長州藩砲台への攻撃を開始したのも同じ元治元年(1864年)8月5日です。3日間の戦闘の末、8月14日に講和が成立したと考えられています(コトバンク「四国連合艦隊下関砲撃事件」)。

馬関戦争図(藤島常興筆、下関市立長府博物館蔵)

出典: Wikimedia Commons(Public Domain Mark 1.0)

つまり長州藩は、京都での敗北を受けた幕府軍21藩の征討と、下関での対外戦争という、国内と国外の2つの圧力を同時に受ける状況に置かれていました。この挟撃状態が、藩内で「恭順すべきだ」とする保守派の主張を強める一因になったと考えられています。

なぜ戦わずに終わったのか

21藩を動員した大規模な征討でありながら、第一次長州征伐は実際の戦闘に至らず終結しました。その理由を、征長軍側と長州藩側のそれぞれから見ていきます。

征長軍参謀・西郷隆盛の方針

征長軍の参謀を務めた薩摩藩士・西郷隆盛は、長州を追い詰めて死に物狂いにさせることを避け、藩内の分裂を進めることで戦わずに制圧する方針を主張したと考えられています(コトバンク「長州征伐」)。真正面から攻め込むのではなく、長州藩自身に恭順させる道を選んだわけです。

三家老切腹による恭順

長州藩内では、支藩・岩国の吉川経幹の周旋もあって保守派(俗論党)が台頭しました。禁門の変の責任者として、3人の家老と4人の参謀が処分され、幕府への恭順の意が示されたと考えられています(コトバンク「長州征伐」)。

三家老のうち福原元僚(越後)は文化12年(1815年)生まれで、禁門の変では先発隊を率いて負傷・敗退し、幕府への謝罪のため切腹を命じられました(50歳没、山口県立山口図書館「明治維新人物調べ方案内」福原越後の案内)。

益田親施(右衛門介)は天保4年(1833年)生まれで、同じく禁門の変で藩兵を率いて敗れ、切腹を命じられています(32歳没)。益田は吉田松陰の兵学門下で、松陰と親交があったことでも知られています(山口県立山口図書館「明治維新人物調べ方案内」益田右衛門介の案内)。

三家老の切腹という恭順の姿勢を受け、幕府軍(征長軍)は実際の戦闘をせずに、元治元年(1864年)12月27日(旧暦)、撤兵令を下しました。なお、撤兵の条件とされた三条実美ら五卿(禁門の変前に長州へ逃れていた公家)の幕府側への引き渡しは、実際には実行されなかったと考えられています。

史実と一般的な通説の違い

「長州征伐」という言葉は、元治元年(1864年)の第一次と、慶応2年(1866年)の第二次をひとまとめにして語られがちです。しかし両者は、動員の規模・戦闘の有無・結果のいずれも大きく異なります。

第一次は21藩を動員しながら実際の戦闘には至らず、無血に近い形で終結しました。これに対し第二次は、66年6月に幕府軍と長州軍の戦闘が実際に開始され、同年9月2日に休戦協定が結ばれています(コトバンク「長州征伐」)。「長州征伐」とひとくくりにすると、第一次の「戦わずに終わった」という特徴が見えにくくなる点には注意が必要です。第二次長州征伐そのものの経緯は、別の機会に改めて整理します。

また、撤兵後の長州藩では、処分に不満を持つ高杉晋作らが下関(馬関)で挙兵し、奇兵隊など民兵諸隊を率いて保守派(俗論党)を一掃し、藩の主導権を握って幕府に反抗する立場へ転じたと考えられています(コトバンク「長州征伐」)。「戦わずに終わった」ことが、そのまま長州藩の恭順の定着を意味したわけではない点も、押さえておきたいところです。

諸説・論争点:国司親相(信濃)の処分方法をめぐる記録の違い

三家老のうち、国司親相(信濃)の処分方法については、資料によって記述が分かれています。山口県立山口図書館の「明治維新人物調べ方案内」(益田右衛門介の案内)は、国司信濃も福原越後・益田右衛門介と同様に「切腹」を命じられたとしています(山口県立山口図書館の案内)。

一方、観光情報サイトの中には「処刑」と表記するものもありますが、その記述の出所を研究者・研究機関まで辿ることはできませんでした。

本記事では、公的機関である図書館の資料案内に沿って「切腹」として扱いますが、三家老の処分の細部には、資料によって表現の揺れがあることも申し添えます。

第一次長州征伐のゆかりの地・史跡

三家老のうち福原元僚・益田親施は、幕府への謝罪のため切腹を命じられた人物として、山口県内の史跡や神社に縁があります。慶応2年(1866年)には、福原元僚を主祭神として祀る宇部護国神社(維新招魂社)が創建されたと考えられています(山口県立山口図書館の案内)。

また、益田親施は慶応元年(1865年)に旧臣によって建立された笠松神社に祀られています(山口県立山口図書館の案内)。現地を訪れる際は、各神社・史跡の公式情報で最新の参拝可能時間・アクセスを確認してください。

まとめ

第一次長州征伐は、禁門の変からわずか6日で朝廷の令旨が出され、幕府が21藩を動員した大規模な征討でした。しかし長州藩が国内(征長軍)と国外(四国艦隊)から同時に圧力を受ける中、西郷隆盛の「戦わずに制圧する」方針と、三家老の切腹による恭順が重なり、実際の戦闘には至らず終結しました。

この「戦わずに終わった」結末は、やがて高杉晋作らの挙兵による藩内主導権の奪還、そして慶応2年(1866年)の第二次長州征伐へとつながっていきます。禁門の変からの一連の流れを押さえておくと、幕末史の展開がより立体的に見えてきます。あわせて、既に整理した禁門の変の記事もご覧ください。

参考文献・典拠

おすすめ商品

本記事に関連する書籍をご紹介します。

Supported by Rakuten Developers

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です