会津藩主・松平容保の肖像(幕末明治文化変遷史所収)
History

会津戦争はなぜ起きたのか|鳥羽・伏見の戦い後の経緯を史実で整理する

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結論

会津藩主・松平容保の肖像(幕末明治文化変遷史所収)

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」松平容保(https://www.ndl.go.jp/portrait/、著作権保護期間満了画像)

鳥羽・伏見の戦いのあと、戦いの舞台はなぜ東北の会津へ移ったのでしょうか。幕末史を追ってきた方なら、一度は気になる点だと思います。

結論から言うと、会津戦争がなぜ起きたのかは、一度の衝突ではなく、鳥羽・伏見の戦い後に積み重なった政治過程の帰結として理解するのが近道だと考えられています。経緯は次の4段階に整理できます。

  1. 新政府が会津藩主・松平容保を朝敵として追討の対象にし、容保の斬首を含む厳しい降伏条件を示した
  2. 仙台藩・米沢藩が会津の寛大な赦免を嘆願したが、奥羽鎮撫総督に却下された
  3. 総督府の強硬派参謀・世良修蔵が殺害され、奥羽諸藩と新政府の対立が決定的になった
  4. 奥羽越列藩同盟が結成され、白河・母成峠での敗北を経て、若松城(鶴ヶ城)の籠城戦に至った

つまり会津戦争は、「会津を許すか、許さないか」をめぐる交渉が決裂した結果として始まったと考えられています。この記事では、その因果の線を日付と典拠付きで順に追います。

なお、本記事で扱う事実はいずれも研究上の通説として書き、断定できない点はその旨を添えます。日付は旧暦(慶応4年)で記し、主要な出来事には西暦を併記しました。

本文

ここからは、鳥羽・伏見の戦いから若松城開城までの流れを、年表と各段階の経緯に分けて順に見ていきます。

具体的には、朝敵指定と降伏条件の提示、仙台・米沢藩による嘆願とその却下、世良修蔵の殺害、奥羽越列藩同盟の結成、そして白河・母成峠での戦闘から若松城籠城戦までを順に追います。

交渉がどこで行き詰まったのかに注目すると、会津戦争がなぜ起きたのかが見えやすくなります。

鳥羽・伏見の戦いから会津追討へ(年表)

慶応4年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽・伏見の戦いを機に、戊辰戦争が始まりました。新政府は徳川慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らを朝敵とし、追討の対象にしたと考えられています(国立国会図書館「会津戦争」)。

徳川慶喜の肖像

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」徳川慶喜(https://www.ndl.go.jp/portrait/、著作権保護期間満了画像)

会津が特に強く狙われた背景には、京都での立場があったとされます。容保は京都守護職として尊王攘夷派を取り締まる側にいました。

新政府軍の中心だった薩摩・長州・土佐の藩士には、容保と会津藩、そして新選組に恨みを持つ者が多かったと説明されています。そのため会津攻めは、他藩への戦いとは異なる性格を帯びたと考えられています(国立国会図書館)。

さらに新政府が示した当初の降伏条件は、次のように厳しいものだったとされます。

  • 藩主・容保の斬首
  • 城の明け渡し
  • 領地の没収

会津藩は当初、恭順の姿勢をとっていたとされます。しかしこの条件は受け入れがたく、藩内で主戦派が力を増す要因になったと考えられています。

なお、新政府が会津討伐をいつ、どの文書で正式に決めたか(いわゆる会津追討令の発令日)は、今回の調査では一次史料で確認できませんでした。本記事では「鳥羽・伏見の戦い後」という精度にとどめます。

ここまでと、この後の流れを年表にまとめます。

日付(旧暦) 出来事
慶応4年1月3日(1868年1月27日) 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争が始まる
鳥羽・伏見の戦い後 新政府が容保らを朝敵とし、厳しい降伏条件を示す
閏4月11日 仙台藩が奥羽諸藩を白石に集め、会津赦免の嘆願に同意を得る
閏4月12日 奥羽鎮撫総督・九条道孝へ嘆願書を提出
閏4月17日 九条総督が嘆願を却下。奥羽諸藩は会津・庄内征討から一時撤兵
閏4月 総督府参謀・世良修蔵が福島城下で殺害される
閏4月24日(1868年6月14日) 白河口の戦いが始まる
5月3日 奥羽越列藩同盟が仙台で結成される
8月21日 母成峠の戦い。新政府軍が会津盆地へ侵入
9月14日(1868年10月29日) 新政府軍が若松城へ総攻撃
9月22日(1868年11月6日) 若松城が開城し、会津戦争が終結

仙台・米沢藩の嘆願とその却下

会津を救おうと動いたのが、東北の大藩である仙台藩と米沢藩でした。両藩は会津藩の重臣と会談し、寛大な条件での赦免を求める方針で一致したとされます。

仙台藩は慶応4年閏4月11日、奥羽諸藩を白石に集めて同意を取りつけました。翌12日には、奥羽鎮撫総督の九条道孝へ嘆願書を提出したと考えられています(白河市資料)。

奥羽鎮撫総督とは、新政府が東北の諸藩を従わせるために派遣した軍の総責任者のことです。奥羽諸藩はその総督に、会津の処分を和らげるよう願い出たわけです。

しかし九条総督は閏4月17日、この嘆願を却下しました。これを受けて奥羽諸藩は、会津・庄内の征討から一時兵を引いたとされます(白河市資料)。

ここで押さえたいのは、奥羽諸藩が最初から新政府と戦うつもりだったわけではない点です。出発点はあくまで「会津を許してほしい」という嘆願でした。

世良修蔵暗殺と奥羽越列藩同盟の結成

対立を決定的にしたのが、奥羽鎮撫総督府の参謀・世良修蔵の殺害です。世良は強硬派として知られ、慶応4年閏4月、駐留先の福島城下で殺害されたとされます(福島市資料)。

実行者を仙台藩士とする説明があり、この事件を機に奥羽諸藩と新政府軍の対立が決定的に深まったと考えられています。

なお、殺害の正確な日付や現場については、通俗的な記述で特定の日付・宿の名が挙げられることがあります。ただし今回の調査では、自治体資料や事典でそこまで裏付けられませんでした。本記事では「閏4月」の精度にとどめます。

その後の慶応4年5月3日、奥羽の諸藩が仙台に集まり、奥羽越列藩同盟を結成しました(コトバンク「奥羽越列藩同盟」)。

同盟の概要は次のとおりとされています。

項目 内容
参加藩 奥羽25藩。事典によって東北25〜26藩に北越6藩が加わり、計30〜31藩とも
盟主 当初は仙台藩。のちに輪王寺宮を迎える
拠点 白石に公議府、福島に軍事局を置く

参加藩の数は事典によって「30藩」「31藩」と記述が分かれます。本記事ではどちらか一方に決めず、幅をもたせて記載します。

なお、表中の輪王寺宮とは、当初の盟主だった仙台藩に代わって、同盟の象徴的な盟主として迎えられた人物を指します。

会津戦争の経過(白河・母成峠・会津若松城籠城戦)

ここからは、会津戦争の経緯のうち戦闘の流れを追います。戊辰戦争全体ではなく、会津へ至る道筋に絞って整理します。

白河口の戦いと二本松城の陥落

慶応4年閏4月24日(1868年6月14日)、白河城をめぐる白河口の戦いが始まりました。旧幕府方は新政府軍を迎え撃ちましたが敗れたと考えられています(国立国会図書館)。

この戦いには新選組の土方歳三も加わったとされます。続いて二本松城も陥落し、新政府軍の会津侵攻を許すことになりました。

母成峠の戦い

慶応4年8月21日、会津の国境にあたる母成峠で、旧幕府・会津方と新政府軍が交戦しました(国立国会図書館 解説コラム(scenery/東北))。

項目 旧幕府・会津方 新政府軍
兵力 約800名 約7,000名
結果 大敗 会津盆地へ侵入

兵力の差は数字のうえで8倍を超え、装備の差も大きかったとされます。この敗北で、会津盆地への入り口が破られたと考えられています。

若松城籠城戦と開城

慶応4年9月14日(1868年10月29日)、新政府軍は若松城(鶴ヶ城)へ総攻撃を行いました。籠城戦は約1か月に及んだとされます。

そして9月22日(1868年11月6日)、若松城は開城し、会津戦争は終結しました(国立国会図書館)。

会津方の戦死者は約2,400名とされ、戦闘に巻き込まれた農民や婦女子などを含めると数千名に上るとする説もあります(国立国会図書館「会津戦争」)。

ほかの数字を挙げる資料もありますが、出典を確認できないため本記事では使いません。

白虎隊の悲劇をどう読むか

会津戦争でよく語られるのが白虎隊です。白虎隊士中二番隊の少年たちは戸ノ口原の戦いで敗れ、飯盛山にたどり着いたとされます(tabi-mag.jp 飯盛山の紹介記事)。

少年たちは若松城下に上がる黒煙を見て落城と思い込み、19名が自刃したと伝えられます。蘇生して生き残ったのは飯沼貞吉ただ1人とされています。

ただし、この話の細部には幅があります。黒煙は実際には城下の民家から出ていたとする説明があります。また、全員がすぐに自決に合意したかどうかも、資料によって記述が異なります。

経緯の多くは、唯一の生存者である飯沼貞吉が後年に語った証言に基づく部分が大きいと見られます。その証言がどう成立したかは今回確認できなかったため、通説として受け止めるのが妥当でしょう。

奥羽越列藩同盟の崩壊と戦後の会津藩

会津が孤立していった背景には、同盟の崩壊もありました。7月には長岡藩が北越戦争で敗れ、秋田藩が同盟を脱退しました。白河・棚倉・二本松も新政府軍に攻略されたとされます(コトバンク「奥羽越列藩同盟」)。

9月には米沢藩・仙台藩・会津藩が相次いで降伏し、同盟は崩壊しました。会津の赦免嘆願から始まった連帯は、同じ慶応4年のうちに終わったことになります。

戦後、容保は隠居し、家督を継いだ容大が明治2年(1869年)に陸奥国北部の斗南(現在の青森県むつ市)3万石へ移されました。表高23万石からの大幅な削減で、会津藩は廃藩となったとされます(コトバンク「会津藩」)。

史実と通説の違い

会津戦争については、分かりやすい物語として語られるイメージがいくつかあります。調査した資料と照らし合わせると、次のように整理できます。

よくあるイメージ 資料から見た整理
会津は最初から徹底抗戦を選んだ 当初は恭順の姿勢で、厳しい降伏条件が主戦派を強めたとされる
奥羽越列藩同盟は最初から新政府と戦うための軍事同盟だった 出発点は仙台・米沢藩による会津赦免の嘆願で、却下と世良修蔵の殺害を経て同盟結成に至った
会津攻めは薩長の私怨だけで説明できる 私怨を重く見る見方と、新国家構想をめぐる対立と見る見方がある(次の章で両論を紹介)
白虎隊は全員が即座に自刃を決めた 細部は資料により記述に幅があり、生存者の後年の証言に依る部分が大きいと見られる

とくに大事なのは、会津戦争を「会津藩と新政府の一騎打ち」とだけ見ないことです。東北の諸藩が嘆願という形で関わり、その決裂が同盟と戦争につながったと考えられています。

鳥羽・伏見の戦いからの流れで見ると、旧幕府方の中心だった会津が、東北全体を巻き込む対立の焦点になっていったことが分かります。

諸説・論争点

研究者のあいだで見方が分かれる論点として、「新政府はなぜ会津討伐にここまでこだわったのか」があります。代表的な2つの見方を並べます。

見方 内容 主な論拠
説A:私怨説 京都守護職時代に取り締まりを受けた薩摩・長州・土佐の藩士の報復感情が、容保の斬首を求める厳しい降伏条件として表れたとする 新政府軍の中心の藩士に会津藩・新選組への恨みを持つ者が多かったとする国立国会図書館の解説
説B:新国家構想対立説 会津戦争は旧幕府方と新政府の単純な戦いではなく、奥羽越列藩同盟が薩長主導の新政府に対抗する新国家の構想を掲げて挑んだ戦いだったとする 同盟側が新しい国家の構想を新政府に突きつけたと位置づける星亮一『会津戦争全史』(講談社)

説Aは、降伏条件の厳しさや会津攻めの性格をよく説明します。一方の説Bは、なぜ東北の多くの藩が会津とともに立ち上がったのかを説明しようとする見方です。

2つは必ずしも矛盾しません。どちらか一方だけで会津戦争を説明するより、両方の視点を持って史料を読むほうが、実像に近づけると考えられます。

ゆかりの地・史跡

会津戦争の舞台は、現在も福島県会津若松市に残っています。

鶴ヶ城(若松城跡)

約1か月の籠城戦の舞台となった若松城は、鶴ヶ城の名で親しまれ、若松城跡として国指定史跡になっています。

項目 内容(2026-10-26時点、公式サイトの案内)
所在地 福島県会津若松市追手町1-1
天守閣(郷土資料館) 8:30〜17:00(最終入場16:30)
休館日 年中無休
入場料 公式サイトで最新情報を確認してください

開館時間や料金は変わることがあります。訪れる前に鶴ヶ城公式サイトで最新情報を確認してください。

飯盛山

飯盛山は、白虎隊士中二番隊の少年たちが自刃した地として知られています。前述のとおり、ここから見た黒煙を落城と思い込んだと伝えられています。

鶴ヶ城と飯盛山をあわせて訪ねると、籠城した側と、城を外から見つめた少年たちの両方の視点で会津戦争をたどれます。

まとめ

会津戦争は、鳥羽・伏見の戦いのあとに続いた一連の政治過程の帰結だったと考えられています。流れをもう一度まとめます。

  • 新政府が容保を朝敵とし、斬首・開城・領地没収という厳しい降伏条件を示した
  • 仙台・米沢藩が白石で奥羽諸藩をまとめて赦免を嘆願したが、閏4月17日に却下された
  • 世良修蔵の殺害で対立が決定的になり、5月3日に奥羽越列藩同盟が結成された
  • 白河口・母成峠で敗れ、9月22日に若松城が開城して戦争は終わった

「なぜ起きたのか」の答えは、私怨と新国家構想のどちらか一方ではなく、両方の視点で読むと立体的になります。気になった論点は、下の典拠や星亮一氏の著作で原典にあたってみてください。

鳥羽・伏見の戦いそのものの経緯を知りたい方は、本シリーズの関連記事もあわせて読むと、幕末の流れが一本の線でつながります。現地を訪ねる際は、鶴ヶ城公式サイトで最新の開館情報を確認してから出かけましょう。

参考文献・典拠

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