江藤新平の肖像(1枚目)
History

「佐賀の乱」はなぜ起きたのか|江藤新平の失脚から挙兵までを史実で整理する

「佐賀の乱」は、明治7年(1874年)に佐賀の不平士族が起こした反乱です。その首領に迎えられたのは、明治政府で初代の司法卿を務め、裁判所や弁護士制度の基礎を築いた江藤新平でした。

政府の中枢で近代国家の法の仕組みを整えていた人物が、下野からわずか数か月で反乱の首領となり、鎮圧からわずか2週間から1か月ほどで処刑される側に転じています。何が、このわずか数か月の転落を引き起こしたのでしょうか。

この記事では、江藤の失脚から挙兵、鎮圧、処刑までの流れを、出典と確からしさを分けて整理します。

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結論:佐賀の乱はなぜ起きたのか(江藤新平の下野と士族反乱の始まり)

佐賀の乱が起きた経緯は、次の3段階で整理できます。いずれも事典類が共通して記す、研究上の通説と考えられている流れです。

  1. 政府からの離脱:明治6年(1873年)10月、朝鮮への使節派遣をめぐる政府内の対立(明治六年の政変)の結果、江藤新平は西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎とともに参議を辞め、政府を離れた
  2. 佐賀の不平士族:佐賀には、江藤を首領に迎えた「征韓党」と、前秋田県権令(県の長官職)の島義勇を首領とする「憂国党」という、政府に不満を持つ二つの勢力があった
  3. 合流と挙兵:この二派が合流する形で、明治7年(1874年)2月に挙兵した

政府は大久保利通を全権とする鎮圧軍を佐賀へ送り、反乱は約2週間から1か月ほどで鎮圧されたとされます(コトバンク「佐賀の乱」)。

江藤は鎮圧後に再起を図りましたが失敗し、明治7年(1874年)4月13日、島義勇とともに処刑されたと考えられています。再起から処刑までの詳しい経緯は、後の章で改めて説明します。

佐賀の乱は、その後に神風連の乱・秋月の乱・萩の乱、そして西南戦争へと続く一連の士族反乱の端緒と位置づけられています。

江藤新平の肖像(1枚目)

出典: 国立国会図書館「近代日本人の肖像」江藤新平(著作権保護期間満了・転載時の申込不要、出典明記のみで利用可)

この記事では、事典類が共通して記す事柄は「〜とされます」「〜と考えられています」と書きます。資料によって食い違う点は、どちらか一方に決めずに両方を示します。

江藤新平の失脚から挙兵・鎮圧までの年表

まず全体の流れを年表で確認します。「確度」の列は、その事柄の確からしさの目安です。「研究通説」は事典類など複数の解説が採っている見方、「諸説あり」は資料によって記述が分かれる点を指します。

時期 出来事 確度
明治5年(1872年)4月 江藤新平が司法卿に就任 研究通説
明治6年(1873年)4月 参議を兼任 研究通説
明治6年(1873年)10月 明治六年の政変で参議を辞職し下野 研究通説
明治7年(1874年)1月 愛国公党の結成に加わり、民撰議院設立建白書に名を連ねる 研究通説
明治7年(1874年)2月 征韓党と憂国党が合流して佐賀で挙兵 研究通説(細かな日付は諸説あり)
挙兵から約2週間〜1か月 大久保利通を全権とする政府軍により鎮圧 研究通説
明治7年(1874年)4月13日 江藤新平と島義勇が処刑される 研究通説

出典: 国立国会図書館リサーチ・ナビ「江藤新平関係文書」、コトバンク「佐賀の乱」、佐賀市の資料(PDF)

司法卿としての江藤新平(明治5年〜6年)

江藤新平は明治5年(1872年)4月に司法卿に就任し、明治6年(1873年)4月には参議を兼ねたとされます(国立国会図書館リサーチ・ナビ)。司法卿は、司法行政を担う司法省の長官です。

佐賀県の資料では、江藤は明治政府初代の司法卿として、全国への裁判所の設置や、判事・検事・代言人(いまの弁護士)の制度づくりに関わった人物とされています(佐賀県資料(PDF))。

つまり江藤は、反乱を起こすわずか1年ほど前まで、近代国家の法の仕組みを整える側の中心にいたことになります。

明治六年の政変と下野(明治6年10月)

転機は明治6年(1873年)10月です。朝鮮への使節派遣をめぐって政府内で対立が起き、その結果、江藤は西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎とともに参議を辞職しました。この出来事は「明治六年の政変」と呼ばれます。

征韓論をめぐる論争そのものは大きなテーマのため、この記事では深入りしません。押さえておきたいのは、この政変で江藤が政府の外に出たという点です。

下野した江藤は、板垣退助らとともに愛国公党の結成に加わりました。明治7年(1874年)1月には、政府を批判する「民撰議院設立建白書」の提出に名を連ねています(国立国会図書館リサーチ・ナビ)。

民撰議院とは、選挙で選ばれた議員による議会のことです。建白書は、言論によって政府に議会の開設を求めたものでした。

言論による批判に加わった翌月に佐賀で挙兵した、という時間の近さは、この事件を理解するうえで見逃せません。

佐賀帰郷と征韓党・憂国党の合流(明治7年1〜2月)

佐賀の乱は、江藤新平が一人で起こした反乱ではありません。佐賀の不平士族は、性格の異なる二つの勢力に分かれていました。

項目 征韓党 憂国党
首領 江藤新平(前参議・前司法卿) 島義勇(前秋田県権令)
主張 征韓論、政府高官による専制の打破 封建的な旧体制への回帰
規模・人数 資料により差がある(諸説あり) 資料により差がある(諸説あり)

出典: コトバンク「佐賀の乱」

征韓党は江藤を首領に迎えた勢力で、憂国党は島義勇を首領としていました。両派の主張は同じではなく、目指す方向も異なっていたことがわかります。

それでも両派は、明治7年(1874年)2月に合流する形で挙兵しました(コトバンク)。政府への不満という一点で、立場の違う勢力が手を組んだ反乱だったと考えられています。

挙兵から鎮圧、処刑まで(明治7年2月〜4月)

政府は、大久保利通を全権とする鎮圧軍を佐賀に派遣しました。東洋経済オンラインの記事は、大久保が陸軍省に発したとされる次の指示を紹介しています(東洋経済オンライン)。

佐賀県下、士族動揺の報あり。よろしく近傍鎮台の兵を出し、県官と商議してすみやかにこれを鎮圧すべし

ただし、この文言の原典となる史料までは本記事で確認できていません。「大久保が発したとされる指示」として読んでください。

反乱軍は、約2週間から1か月ほどで鎮圧されたとされます。江藤は再起を図って鹿児島へ向かい、西郷隆盛に支援を求めましたが、西郷は応じませんでした。江藤はその後、東京へ向かう途中の高知県で逮捕されています(コトバンク)。

江藤と島義勇は臨時裁判所で裁かれ、明治7年(1874年)4月13日に処刑されたと考えられています。処刑地については、佐賀の嘉瀬御仕置場とする佐賀市の資料があります(佐賀市の資料(PDF))。

史実と通説の違い

佐賀の乱は「江藤新平の乱」として語られることが多い事件です。しかし資料を並べると、単純化された語りとは違う姿が見えてきます。

「江藤新平ひとりの反乱」ではない

江藤の名前が前面に出るため、江藤が一人で計画した反乱という印象を持たれがちです。ですが前の章で見たとおり、実際には征韓党と憂国党という二つの勢力が合流して動いたと考えられています。

江藤新平の肖像(2枚目)

出典: 国立国会図書館「近代日本人の肖像」江藤新平(著作権保護期間満了・転載時の申込不要、出典明記のみで利用可)

江藤が自らの意思で反乱を主導したのか、帰郷後に周囲の士族に担がれたのかを問う見方も、一般向けの書籍紹介などで見られます。

ただ、本記事の調査では研究者の論考まで辿れる形で両方の説を確認できなかったため、ここでは問いの存在を紹介するにとどめます。

参加した士族の人数は資料で大きく違う

反乱に加わった士族の人数は、事典によって数字が大きく異なります。

資料 参加人数の記述
ブリタニカ国際大百科事典 約3,000人
日本大百科全書 1万1,000余人
山川日本史小辞典 約1万2,000人

出典: コトバンク「佐賀の乱」に収録された各事典の記述

このように、資料によって数千人から1万人超まで幅があり、一つの数字に決めることはできません。処罰された人の数も資料によって異なるため、本記事では特定の数字を挙げません。

挙兵の日付も資料で扱いが異なる

挙兵の細かな日付も、資料によって扱いが分かれます。日本大百科全書の年表は、2月1日の小野組襲撃、2月4日の政府による鎮圧出兵の命令、2月18日の佐賀県庁占拠という流れを示しています。

一方で、別の事典は挙兵日そのものを2月15日としています(いずれもコトバンクの収録内容)。「何をもって挙兵とするか」によって日付が変わるため、本記事の年表では「明治7年2月に挙兵」という幅のある書き方にしました。

一般向けの記事には、大久保利通による「江藤抹殺」や、才能への嫉妬といった人間ドラマとしての語りも見られます。これらは研究上の根拠まで確認できていないため、本記事では史実として扱っていません。

諸説・論争点

佐賀の乱の出発点である、江藤の下野をどう見るかについては見解が分かれています。ここでは要点だけ紹介します。

見方 内容 主な典拠
説A(通説) 西郷隆盛の朝鮮への使節派遣を、大久保利通・岩倉具視ら内治優先派(国内の整備を先とする立場)が時期尚早として退け、敗れた西郷・板垣・後藤・江藤らが辞職した デジタル大辞泉・日本大百科全書などの事典類
説B 通説の経緯には不可解な点が多く、単純な政策論争の敗北ではなく、大久保らによる政治的排除の意図を含む複雑な権力闘争だった 毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書)

説Bを唱える毛利敏彦(大阪市立大学名誉教授)の議論は、ジャーナリストの魚住昭氏が現代ビジネスの記事で紹介しています。詳しくは毛利氏の著書そのものにあたることをおすすめします。

どちらの見方を採るかで、江藤の下野が「論争に敗れた結果」なのか「排除された結果」なのか、印象が変わります。ただしこの論点は政変そのものの解釈に関わるため、本記事ではこれ以上踏み込みません。

学術研究とは別に、参考となる見方もあります。作家の佐木隆三は『司法卿江藤新平』(文藝春秋、1995年/文春文庫、1998年)で、江藤の下野の原因を征韓論での敗北だけに求めませんでした。

司法卿としての江藤と、井上馨・渋沢栄一らの大蔵省との対立にも原因を見ています。

佐木はノンフィクション作家であり、学術研究者ではありません。そのため上の表の学説とは分けて、作品として示された一つの見方として受け止めるのがよいでしょう。

ゆかりの地・史跡

ここからは、本題の「なぜ起きたのか」からは少し離れた番外編です。確実に確認できた3か所だけ、簡潔に紹介します。

  • 佐賀城本丸歴史館・鯱の門(佐賀城跡): 鯱の門の扉に、佐賀の乱の戦闘の痕跡とされる弾痕が残る
  • 神野公園(鍋島直正の別邸跡): 江藤新平の銅像が建つ(佐賀県の資料(PDF))
  • 本行寺: 江藤新平の墓がある

いずれも開館時間や拝観の可否が変わることがあるため、訪れる前に各施設・寺院の公式情報で確認してください。

まとめ

佐賀の乱がなぜ起きたのかを、あらためて3点にまとめます。

  • 明治六年の政変で、司法卿・参議だった江藤新平が政府を離れた
  • 佐賀には征韓党と憂国党という、主張の異なる不平士族の勢力があった
  • 両派が合流して明治7年(1874年)2月に挙兵し、大久保利通の鎮圧軍に短期間で敗れ、江藤と島義勇は同年4月13日に処刑された

一方で、参加人数や挙兵の日付は資料によって食い違い、江藤の下野そのものの解釈にも議論があります。一つの資料だけで判断せず、複数の典拠を見比べることが大切です。

佐賀の乱は、各地で続いた士族反乱の最初の大きな事件でした。興味を持った方は、下の参考文献から事典や自治体の資料を読み、佐賀城跡や神野公園など現地の史跡を訪ねてみてください。

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参考文献・典拠

本文で使った出典を一覧にします。

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