菊池容斎が描いた大塩平八郎の肖像
History

大塩平八郎の乱の原因は3つ|天保の大飢饉・大坂町奉行への不信・豪商への怒り

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天保8年(1837年)2月19日(旧暦)、大坂で大塩平八郎が兵を挙げました。大塩は大坂東町奉行所の元与力です。かつて奉行所に勤めた人物が、なぜ反乱を起こしたのでしょうか。

この記事では、大塩平八郎の乱の原因を3つに分け、決起までの流れを年表でたどります。複数の事典で確かめられる事実と、研究上の通説とを区別して書きます。

結論

大塩平八郎の乱はなぜ起きたのか。原因は、天保の大飢饉、大坂町奉行所への不信、豪商への怒りの3つが重なったことにあると考えられています。

原因 内容 本記事での扱い
① 飢饉と米不足 天保7年(1836年)の飢饉で、大坂の町でも困窮する人びとが出た 複数の事典で確かめられる事実
② 大坂町奉行所への不信 大塩が求めた救済策を奉行所は受け入れなかった。飢饉の中でも江戸への廻米が続き、大塩はこれを批判した 救済策の却下は事実、廻米(幕府や藩が江戸などへ米を送ること)への批判は通説
③ 豪商への怒り 豪商の暴利への不満も背景にあった 通説

飢饉という災害に、奉行所と豪商への怒りが重なった末の決起でした。蔵書売却と檄文(決起を呼びかける文書)の流れは、のちの節で順に見ていきます。

大塩平八郎の乱とは

乱の全体像を表で確認します。日付は旧暦で、天保8年(1837年)2月19日は新暦では3月25日にあたります。

項目 内容
発生日 天保8年(1837年)2月19日(旧暦)
場所 大坂。天満から船場へ進んだ(どちらも大坂の市街地の地区名で、船場は商家が集まった中心部)
首謀者 大塩平八郎(大坂東町奉行所の元与力、陽明学者)
襲撃先 鴻池屋など豪商
結果 半日から1日で鎮圧。市中の約5分の1が焼けた
首謀者の最期 3月27日(旧暦)、養子の格之助とともに自害

日付・場所・襲撃先は、複数の事典で確かめられる事実です。鎮圧までの時間、焼けた範囲、最期については、事典類の記述(研究上の通説)に基づきます。

大塩平八郎は寛政5年(1793年)生まれとされ、大坂東町奉行所の与力(町奉行所に属した役人)を務めました。陽明学者としても知られます。

38歳で与力を辞し、私塾「洗心洞」で教育と著述に専念したとされます。辞職は上司の高井実徳の辞任に合わせたもので、年は天保元年(1830年)とする辞典が多いようです。

なぜ大塩だったのか。奉行所の仕事を内側から知る元与力であり、辞職後は洗心洞で門人を教える立場にもあったためと考えられます。飢饉の際に奉行所へ提言できる経験と、人を動かせる拠点を持っていたということです。

菊池容斎が描いた大塩平八郎の肖像

大塩平八郎像(菊池容斎画、19世紀)。出典: Wikimedia Commons / Public domain

原因1: 天保の大飢饉と大坂の米不足

3つの原因と決起までの関係を図にすると、次のようになります。

大塩平八郎の乱の3つの原因と、蔵書売却・檄文を経て決起に至る流れの図解

図: 大塩平八郎の乱の原因の整理(当サイト作成。コトバンク「大塩平八郎」「大塩の乱」を基に作成)

1つ目の原因は、天保7年(1836年)の飢饉です。この飢饉は天保の大飢饉の一部をなし、大坂の町でも米が不足して、暮らしに困る人びとが出たとされます。

藪田貫『大塩平八郎の乱』の出版社の紹介文も、天保の飢饉を乱の背景に置いています。大塩が困窮者の救済に動いたのも、この年のことです。

なお、米価の具体的な動きや餓死者の数は、今回確かめた事典類では確認できませんでした。そのため数字は書きません。

ただし飢饉だけでは、元与力が武力で立ち上がった理由までは説明しきれません。乱の原因を考えるうえで欠かせないのは、飢饉に対して奉行所と豪商がどう動いたか、という点です。

原因2: 大坂町奉行所への不信

2つ目の原因は、大坂町奉行所への不信です。大塩の批判は、救済策の扱いと江戸廻米の2点に分けると整理しやすくなります。

奉行所の不正への不満も、乱の背景にあったとされています(コトバンク「大塩の乱」)。

元与力の大塩が奉行所に求めたこと

天保7年(1836年)の飢饉にあたり、大塩は奉行所に救済策を求めましたが、受け入れられませんでした。大塩にとっては、かつて自分が勤めた奉行所に提言を退けられたことになります。

藪田貫『大塩平八郎の乱』(中公新書)の出版社の紹介文も、天保の飢饉のなかで救済の要求が拒否されたことに触れています。

江戸廻米への批判

廻米とは、ここでは江戸へ米を送ることを指します。飢饉の中でも幕府は江戸への廻米を続けており、これが大塩の批判した不正の一つだったとされます。

東町奉行の跡部良弼については、将軍宣下(将軍職に任じる儀式)の費用のために江戸廻米の命令に応じ、市中の惨状を顧みなかったとする批判があります(ジャパンナレッジ)。

救済の提言は退けながら、江戸への米は送り続ける。大塩が奉行所に向けた不信は、この2つが重なったところにあったと整理できます。

原因3: 豪商への怒りと蔵書売却

3つ目の原因は、豪商への怒りです。豪商の暴利への不満も乱の背景にあったとされ、山口県文書館の資料(PDF)も豪商の買い占めへの怒りに触れています。

奉行所が救済策を受け入れないなか、大塩は自分の蔵書を売って資金を作り、困窮者を救いました。

さらに、その資金で檄文を印刷したとされます。困窮者の救済と決起の呼びかけが、同じ蔵書から生まれたことになります。

決起した大塩勢が襲ったのも、鴻池屋など豪商でした。檄文での糾弾と襲撃の目標が重なっていることからも、豪商への怒りが乱の動機の一つだったと考えられます。

なぜ武力による決起に至ったのか

確かな範囲をつなぐと、因果は次のように整理できます。飢饉で困窮者が出るなか、大塩は奉行所に救済策を求めましたが、受け入れられませんでした。

そこで自分の蔵書を売って困窮者を救い、その資金で檄文を印刷しました。檄文は奉行らと豪商を糾弾し、農民に決起を呼びかけるものでした。

つまり、提言が退けられたあとも救済を続けた大塩が、奉行所の側では事態が動かないと見て、武力に踏み切ったと考えられます。ただし大塩の心中を直接示す史料までは確認できておらず、この点は通説にもとづく整理です。

決起までの経過

決起までの経過を、与力の辞職から2月19日の挙兵までの年表にまとめます。日付は旧暦です。図には自害と処罰も含めています。この2点は「乱の結果と影響」で扱います。

大塩平八郎の乱の年表。与力の辞職から決起、自害、処罰までの流れ

図: 大塩平八郎の乱の年表(当サイト作成。コトバンク「大塩平八郎」「大塩の乱」を基に作成)

時期(旧暦) 出来事
寛政5年(1793年) 大塩平八郎が生まれる
天保元年(1830年)ごろ 38歳で与力を辞し、私塾「洗心洞」で教育と著述に専念
天保7年(1836年) 飢饉。奉行所に救済策を求めるが受け入れられず、蔵書を売って困窮者を救済
決起の前 蔵書を売った資金で檄文を印刷し、配る
天保8年(1837年)2月19日 門人の密告で計画が露見し、予定を繰り上げて挙兵。天満から船場へ進み、鴻池屋など豪商を襲撃。半日から1日で鎮圧

天保7年の救済策の却下・蔵書売却と、2月19日の挙兵・襲撃は、複数の事典で確かめられる事実です。ほかは事典類の記述(通説)に基づきます。

襲撃の目標は、新任の西町奉行・堀利堅と、先任の東町奉行・跡部良弼だったと説明されています。

大塩平八郎の乱を描いた19世紀の絵

大塩平八郎の乱を描いた絵(19世紀、作者不詳)。出典: Wikimedia Commons / Public domain

檄文は何を訴えたか

大塩の檄文は2000字を超える長文で、奉行らの不正や豪商の暴利を糾弾し、農民に決起を呼びかけたとされます。

宛先と冒頭の文言

事典では、冒頭の宛先が「天より下され候村々小前の者に至る迄へ」と紹介されています。小前の者とは、持ち高の少ない一般の百姓を指す語です。村々の人びとに直接宛てた形です。

吹田市立博物館の資料(PDF)は、檄文の冒頭を「四海こんきういたし候ハヽ、天禄ながくたゝん」と紹介し、大坂周辺の百姓に配られたとしています。

「四海(天下)が困窮すれば、天禄(天から授かる禄)も長くは続かない」という趣旨に読めるとされる一文です(現代語訳は本記事の読みです)。なお本記事は檄文の原文全体を確認できておらず、引用は事典と博物館資料の紹介に基づきます。

糾弾した相手

檄文が糾弾したのは、奉行らの不正と豪商の暴利でした。原因2の奉行所への不信と、原因3の豪商への怒りが、そのまま檄文の主張になっています。

飢饉に苦しむ村々の人びとに向けて、何が問題なのかを名指しした文書だったといえます。乱の原因を知るうえで、檄文は大塩自身の言い分を伝える手がかりです。

諸説・論点: 江戸廻米の動機と奉行所の対策の評価

大塩平八郎の乱には、見方が分かれうる論点もあります。ここでは両説を並べて評価せず、論点と、資料による表現の幅を示します。

論点として挙がる2つの問い

  • 江戸廻米の動機: 江戸の食料確保のためか、政治的な思惑があったのか、という問いです。確かなのは、飢饉の中でも廻米が続き、大塩がそれを批判したという点です。
  • 奉行所の米価対策の評価: 一定の効果があったのか、無策だったのか、という問いです。評価は分かれうる点として残ります。

この2点を深く知りたい場合は、藪田貫『大塩平八郎の乱』(中公新書、2022年)などで説の出所を確かめるのがよいでしょう。出版社の紹介によれば、同書は江戸へ密かに送られた建議書も扱っています。

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資料によって表現が分かれる点

項目 資料の記述 本記事での扱い
与力を辞した年 天保元年(1830年)とする辞典が多い 「ごろ」と幅を持たせる
潜伏の期間 山川日本史小辞典は約40日後に発見、藪田貫氏の紹介文は約1か月 どちらかに決めない
蔵書の冊数と売却額 具体的な数字を挙げる解説記事がある 事典類で確認できず、挙げない
焼死者や焼け出された人の数 人数を挙げる解説記事がある 「市中の約5分の1が焼けた」までにとどめる
挙兵の人数、密告の日時 解説記事により記述がある 事典類で確認できず、挙げない

乱の結果と影響

大塩焼けと処罰

乱にともなう火災で、大坂の市中の約5分の1が焼けたとされます。この火災は「大塩焼け」と呼ばれます。

三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス」も、乱の後の大火で大坂の五分の一を焼いたと記しています。

関係者の処罰は総数750人にのぼり、うち40人が磔・獄門・死罪とされたと説明されています。磔は罪人を柱にかけて槍で突く刑、獄門は斬首のうえ首をさらす刑、死罪は斬首の刑です。

大塩の最期と各地への波及

大塩は乱の後に潜伏し、3月27日(旧暦)に養子の格之助とともに自害しました。潜伏の期間は、上の表のとおり資料によって表現に幅があります。

大塩平八郎終焉の地碑

出典: 大塩平八郎終焉の地碑 by 瑞雲 / CC BY-SA 3.0

乱の後、大塩に共鳴する一揆や「大塩門弟」を名乗る騒動が各地で起きたとされます。乱の影響は大坂の外にも及びました。個々の騒動については、この記事では扱いません。

まとめ

大塩平八郎の乱の原因は、次の3つが重なったことにあると考えられています。

  • 天保7年(1836年)の飢饉と、大坂の米不足
  • 救済策を退けた奉行所への不信と、飢饉の中でも続いた江戸廻米への批判
  • 豪商の暴利への怒り

救済を退けられた元与力が、蔵書売却と檄文を経て、天保8年(1837年)2月19日に決起したのが乱の流れです。

「飢饉が原因」とだけ覚えていた方は、飢饉への対応をめぐる怒りまで含めて捉え直してみてください。

さらに詳しく知りたい方は、コトバンク「大塩平八郎」で人物像を確かめ、藪田貫『大塩平八郎の乱』(中公新書)で論点を読み進めるのがおすすめです。

成正寺にある大塩平八郎・格之助の墓

成正寺(大阪市北区)の大塩平八郎・格之助の墓。出典: Jyoshoji (Kita, Osaka) oshio by KENPEI / CC BY-SA 3.0

参考文献・典拠

本文で使った出典です(いずれも2026-10-30に確認)。

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