真田十勇士は本当に実在したのか|史料からわかること
真田十勇士は実在したのか。猿飛佐助や霧隠才蔵の武勇伝は大正期の講談本「立川文庫」の創作と考えられています。名前が江戸期の軍記物にさかのぼる4人、真田家が実際に使った「忍び」、出浦昌相をめぐる論争まで史料から整理します。

真田十勇士は実在したのか。猿飛佐助や霧隠才蔵の武勇伝は大正期の講談本「立川文庫」の創作と考えられています。名前が江戸期の軍記物にさかのぼる4人、真田家が実際に使った「忍び」、出浦昌相をめぐる論争まで史料から整理します。
茶々(淀殿)はなぜ父母の仇とされる秀吉の妻になったのか。小谷城・北庄城の落城から鶴松・秀頼の誕生までを年表で整理し、時期をめぐる黒田基樹説・福田千鶴説や「側室ではなく別妻」とする研究も両論併記で紹介します。
真田昌幸はなぜ徳川の大軍を二度も退けられたのか。第一次・第二次上田合戦の経緯を年表で整理し、上田城と砥石城を使った戦術や外交、兵力数・秀忠遅参をめぐる通説と最新の見方を、史料の確度とあわせて解説します。
本能寺の変はなぜ起きたのか。黒幕は今も特定されておらず、研究者の見解は「突発的な単独犯行」と「四国政策をめぐる計画的な決起」に分かれています。怨恨説・朝廷黒幕説などの確かさを史料から整理します。
天正13年(1585年)の四国征伐(四国平定)後、秀吉が蜂須賀正勝に与えようとした阿波一国。正勝はこれを辞退し、嫡男・家政に譲りました。高齢と秀吉の側近く仕えたいという理由と、その後の蜂須賀家25万7000石への道のりを出典付きで整理します。
豊臣秀長は大和入国後すぐ寺社へ指出検地を命じました。なぜ年貢を改める必要があったのか、興福寺の所領没収など史料で確認できる経緯と、指出検地と太閤検地の違いをわかりやすく整理します。
天正13年(1585年)の四国征伐で、秀吉は10万を超える大軍を動かしながら自ら渡海せず、弟の秀長を総大将に据えました。佐々成政への備え、秀吉の病、関白就任の政治日程、秀次の育成という4つの事情を史料と事典の記述から整理します。
長宗我部元親は若いころ「姫若子」と呼ばれながら、1560年の初陣を境に「鬼若子」と評されるようになったと伝わります。二つの異名が生まれた背景と、史料としてどこまで確かめられるのかを整理します。
豊臣秀長はなぜ生涯ただ一人、兄・秀吉を裏切らなかったのか。秀吉に直言できた唯一の存在という政権内の役割と、実子誕生前は最有力後継者だったとする見方から、研究者の見解をもとに整理します。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、池田恒興はなぜ三河中入り(岡崎攻め)を献策したとされるのか。作戦の経緯と、発案者は恒興か秀吉かという論争、長久手古戦場の勝入塚まで、確認できる史実に絞って整理します。