毛利輝元はなぜ関ヶ原で西軍総大将なのに参戦しなかったのか|史実を整理する
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毛利輝元はなぜ関ヶ原で西軍総大将なのに参戦しなかったのか|史実を整理する

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関ヶ原の戦いで西軍の総大将に据えられていたのは、石田三成ではなく中国地方の大大名・毛利輝元でした。それなのに輝元は大坂城から一歩も出ず、関ヶ原の南宮山に布陣した毛利勢も最後まで動きませんでした。「総大将なのになぜ戦わなかったのか」は、関ヶ原をめぐる大きな疑問のひとつです。

この記事では、毛利輝元が関ヶ原で参戦しなかった理由を、研究者の署名記事や学術論文で示されている範囲に絞って整理します。研究者の間で見方が分かれる点は、どちらか一方に決めずに両方の説を並べます。

毛利輝元はなぜ関ヶ原で参戦しなかったのか(結論)

毛利勢が関ヶ原で戦わなかった最大の理由は、家臣の吉川広家と福原広俊が東軍の黒田長政を通じて徳川家康に内応していたことだと考えられています。「毛利勢を戦闘に参加させない代わりに、毛利家の本領を安堵する」という取引が本戦の前日までにまとまっていたとされます(渡邊大門氏の解説)。

ただし、これは「輝元がやる気のない総大将だった」という意味ではありません。近年の研究では、輝元は西軍の挙兵を知るとすぐに大坂城へ入るなど、当初は積極的に動いていたと見直されています。積極的だった総大将が、なぜ最後に動けなかったのかが本当の問題です。

参戦しなかった理由の要点

観点 内容 確度
直接の理由 吉川広家・福原広俊が東軍に内応し、毛利勢を動かさない密約が成立 研究通説
密約の証文 慶長5年9月14日(旧暦)、徳川方が「輝元を疎略にしない」「分国の安堵も相違ない」と血判起請文(起請文=神仏に誓いを立てる形式の誓約書)で約束 研究通説(毛利家文書)
輝元の姿勢 挙兵直後に大坂城へ入城するなど、当初は積極的だったとする見直しが進む 研究通説
輝元が密約を知っていたか 研究者の間で見方が分かれる 諸説あり

毛利輝元の生涯・関ヶ原前後の流れ(年表)

毛利輝元は天文22年(1553年)、毛利隆元の子として生まれました。祖父は中国地方の覇者となった毛利元就です(コトバンク「毛利輝元」)。

家督相続から関ヶ原前後までの経緯は、出来事が多いため次の年表にまとめました(秀吉との講和・臣従の経緯はおかやま旅ネット、112万石・五大老についてはサライ.jp、刀剣ワールドを参照)。

年月日 出来事
天文22年(1553年) 毛利隆元の子として誕生
永禄6年(1563年) 父の急死により11歳で家督相続(元就が後見)
天正10年(1582年)6月4日(旧暦) 本能寺の変を受けて秀吉と講和、のち臣従
天正19年(1591年) 安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐の全域と伯耆・備中の一部、合わせて112万石の朱印状(朱印状=天下人・将軍が発給する、領地の保証を示す公文書)を得る。のち五大老の一人に
慶長5年(1600年)7月(旧暦) 西軍挙兵の報を受け、広島からわずか2日で大坂城に入城
慶長5年9月14日(旧暦) 徳川方が血判起請文で輝元の身の安全と分国安堵を約束
慶長5年9月15日(旧暦) 関ヶ原本戦。南宮山の毛利勢は動かず、輝元も大坂城から出陣せず西軍敗北
戦後 家康が改易を宣告するも撤回され、周防・長門2か国に減封
慶長9年〜13年(1604〜1608年) 新たな本拠として萩城を築城

起請文の約束と、防長減封後の再出発

本戦前日の9月14日(旧暦)、徳川方は井伊直政・本多忠勝の血判起請文と、福島正則・黒田長政の連署血判起請文によって、「輝元を疎略にしない」「分国の安堵も相違ない」と約束したことが毛利家文書に残るとされます(渡邊大門氏の解説)。翌15日、南宮山に布陣した毛利秀元・吉川広家らの毛利勢(1万数千規模)は、家康本陣の背後を突ける位置にいながら終始軍を動かさず、輝元自身も大坂城から出陣しないまま西軍は敗れたと考えられています。

戦後、家康は当初輝元の改易(領地の全没収)を宣告しましたが、吉川広家と井伊直政の嘆願で撤回され、毛利氏は周防・長門の2か国だけを安堵されたと考えられています。安芸・備後は東軍の福島正則に与えられました(刀剣ワールド「長州藩」)。この「防長減封」の石高は、次のように変わっていったとされています。

時期 石高 内容
天正19年(1591年) 112万石 秀吉の朱印状による中国地方の領国
関ヶ原直後 約29万8千石 周防・長門2か国の当初の石高とされる数字
慶長15年(1610年) 53万9千石余 検地で判明した実際の石高
慶長18年(1613年) 36万9千石余(約37万石) 普請役負担などを理由に幕府が公認した表高

※「表高」は幕府が公式に認定し、参勤交代や普請役など諸役の基準にした石高です。一方「実際の石高(検地による実高)」は、その土地から実際に見込める収穫高を指します。防長2か国は検地で実高がむしろ増えていましたが、幕府は表高を実高より低く定めたため、公式な数字だけを見ると石高が減ったように見えます。

慶長9年(1604年)には周防・長門の新しい本拠として萩城の築城に着手し、慶長13年(1608年)に完成させたとされます。関ヶ原後まもなく隠居の意を示して家督を秀就に譲る形をとりましたが、実権は輝元が握り続けたと考えられています。

史実と通説の違い

関ヶ原での毛利輝元は、長く「安国寺恵瓊に祭り上げられた消極的な総大将」として語られてきました。人の好い輝元が担ぎ出され、自分では何も決めないまま敗者の側に立った、という人物像です。

見直されつつある「消極的な総大将」像

この通説を見直したのが、歴史学者・光成準治氏の研究です。論文「関ヶ原前夜における権力闘争:毛利輝元の行動と思惑」(史学雑誌113巻12号、2004年)や評伝『毛利輝元:西国の儀任せ置かるの由候』(ミネルヴァ書房、2016年)で、輝元の積極的な関与が論じられています。

根拠として挙げられるのは、行動の速さです。輝元は慶長5年7月(旧暦)に西軍挙兵の知らせを受けると、広島からわずか2日で大坂城に入り、甥の毛利秀元も6万の大軍を率いて参陣したとされます(現代ビジネスの紹介記事)。祭り上げられただけの総大将の行動としては説明しにくい、という見方です。

比較点 従来の通説(消極説) 光成準治氏の研究(積極説)
総大将になった経緯 安国寺恵瓊に担ぎ出された 輝元自身が西国支配の拡大を意識して動いた
挙兵直後の行動 受け身だったとされる 広島から2日で大坂城に入城
人物評 優柔不断で存在感が薄い 総大将の立場を意識しつつ、迷いを抱えて事態を進めた

「宰相殿の空弁当」は後世の逸話

毛利勢が動かなかった場面を象徴する話に「宰相殿の空弁当」があります。長宗我部盛親から出陣を促された毛利秀元が「兵に食事をさせている」と答えて時間を稼いだ、という逸話です。

ただしこの話は、江戸期に成立した編年譜的な記録に基づくとされ、同時代史料での直接の裏付けは確認されていません。当日の毛利勢の様子を伝える確かな記録というより、後に広まった逸話として受け止めるのが妥当です。

諸説・論争点

毛利勢が戦わなかった直接の理由が吉川広家らの内応にある点は、研究通説と考えられています。一方で、輝元自身が内応交渉を事前に知っていたかどうかは、研究者の間で見方が分かれています。

説A・説Bの対比

観点 説A: 輝元は知らなかった 説B: 輝元は積極的に関与していた
論拠 輝元が徳川方に「広家の独断で、自分は関知していない」と弁明したとされる記述が毛利家文書にある 大坂入城の速さ(2日)や秀元の6万の大軍参陣など、乗り気でない総大将の行動としては説明しにくい積極性がある
見方 関ヶ原後の交渉でも、毛利家はこの説明で改易を避けようとしたとされる 総大将の立場を意識しながらも、迷いを抱えたまま事態を進めた可能性が高い
論拠・支持者 渡邊大門氏(歴史学者) 光成準治氏(歴史学者)
出典 渡邊大門氏の解説 史学雑誌掲載論文

どちらの説も史料や行動に根拠を置いており、現時点で決着はついていません。説Bに立つと、輝元を「何も知らされなかった総大将」とだけ捉えるのは難しくなります。また「弁明の文書がある」ことと「弁明の内容が事実である」ことは別の問題である点にも注意が必要です。

なお、高橋陽介氏の『シン・関ヶ原』(講談社現代新書、2025年)は、輝元が増田長盛らとともに主体的に挙兵を主導したという新しい見方を示しています。これに対し、歴史研究者の呉座勇一氏は、引用された9月12日付石田三成書状や9月17日付吉川広家書状案とされる史料の信憑性に重大な疑義があると自身のブログで批判しています。具体的には、これらの書状が本当にその日付・差出人のものと確定できるのか、根拠が明確に示されているのかという点に疑義を向けているとされます。新説として提示されている段階で、確定した事実とは言えません。

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ゆかりの地・史跡

輝元と関ヶ原の経緯をたどれる史跡は、広島と山口に集まっています。開館時間や料金は変わることがあるため、訪問前に各公式サイトで最新情報を確認してください。

史跡 所在地 関ヶ原とのつながり
広島城 広島市 輝元が築いた本来の本拠地。関ヶ原後に福島正則へ明け渡した
萩城跡指月公園 山口県萩市 防長減封後、慶長9〜13年(1604〜1608年)に築いた新たな本拠
毛利博物館 山口県防府市 輝元の肖像画を所蔵
岩国徴古館・吉川史料館 山口県岩国市 内応交渉を担った吉川広家ゆかりの地

広島城

広島城は輝元が築いた、毛利家本来の本拠地です。関ヶ原の後、輝元はこの城を福島正則に明け渡しました。城の歴史は広島城公式サイトで紹介されています。

萩城跡・毛利博物館・岩国

萩城跡は、2か国に減らされた毛利家が再出発した場所です。案内は萩市の観光案内で確認できます。輝元の肖像画を所蔵する毛利博物館、吉川広家ゆかりの岩国徴古館とあわせて巡ると、関ヶ原前後の毛利家を立体的にたどれます。

まとめ

毛利輝元が関ヶ原で参戦しなかったのは、吉川広家・福原広俊らが進めた東軍への内応と、本戦前日の起請文による本領安堵の約束があったためと考えられています。一方で、挙兵直後の大坂入城の速さなどから、輝元を「祭り上げられた消極的な総大将」とだけ見る通説は見直されつつあります。

輝元が内応を事前に知っていたかは、今も研究者の間で見方が分かれる論点です。112万石から周防・長門2か国へと大きく減らされた毛利家は、萩城を築いて再出発し、のちの長州藩の基盤となりました。

「総大将なのに動かなかった」という一言の裏には、家中の路線の違いと密約という複雑な事情があります。関心を持った方は、光成準治氏の評伝や史跡の公式情報にあたり、ご自身で史料の手触りを確かめてみてください。

参考文献・典拠

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