真田信之はなぜ関ヶ原で東軍についたのか|史実を整理する
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真田信之はなぜ関ヶ原で東軍についたのか|史実を整理する

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関ヶ原の戦いのとき、真田家は父・昌幸と弟・信繁が西軍に、長男・信之が東軍に分かれました。「どちらが勝っても家が残るように分かれた」という説明をよく目にしますが、どこまでが史料や研究で裏付けられ、どこからが後世の物語なのでしょうか。この記事では、真田信之がなぜ東軍についたのかを、研究者の見解と出典を示しながら整理します。

真田信之が関ヶ原で東軍についた理由|結論

真田信之が関ヶ原で東軍についた理由は、大きく2つの要因が重なった結果と考えられています。1つは、徳川家康の重臣・本多忠勝の娘(小松殿)を正室に迎え、徳川家と縁戚になっていたことです。もう1つは、慶長5年(1600年)の「犬伏の別れ」と呼ばれる父子の密談で、家康方に留まる判断を変えなかったことです。

さらに研究者の平山優氏は、信之が密談より前から徳川方につく意向を固めていた可能性を指摘しています(PHPオンライン 平山優氏署名記事)。一方、弟・信繁は西軍の中心人物の一人・大谷吉継の娘を妻としており、兄弟の縁組はそれぞれ東西の陣営と結びついていたとされています。

観点 真田信之(兄) 真田信繁(弟)
正室 本多忠勝の娘・小松殿(家康の養女として嫁ぐ) 大谷吉継の娘
関ヶ原での立場 東軍(徳川家康方) 西軍(石田三成方)、父・昌幸と同じ
戦後 上田領・沼田領を安堵・拝領し、上田藩初代藩主に 父とともに高野山・九度山へ蟄居

犬伏の別れまでの流れ|年表で整理する

まず、信之が東軍を選んでから生涯を終えるまでの流れを年表で確認します(日付の多くは推定を含む研究上の通説です)。

時期 出来事 信之の立場
天正17年(1589年) 本多忠勝の娘・小松殿を正室に迎える 徳川家と縁戚に
慶長5年(1600年)7月 会津征伐に父・弟とともに従軍 家康方の軍勢の一員
慶長5年(1600年)7月21日頃 犬伏の別れ(下野国犬伏宿) 東軍に留まる
関ヶ原本戦の前 第二次上田合戦 東軍として父の上田城攻めに加わる
関ヶ原の戦い後 昌幸・信繁の助命を嘆願 舅・本多忠勝とともに家康へ願い出る
関ヶ原の戦い後 上田領・沼田領を安堵・拝領 上田藩初代藩主
元和8年(1622年) 松代へ領地替え 松代藩初代藩主
明暦3年(1657年)/万治元年(1658年) 隠居/死去 真田家を大名として存続させる

会津征伐への従軍と石田三成方の動き

慶長5年(1600年)、真田昌幸・信之・信繁の父子は、家康が率いる会津征伐に従軍していました。その途中、石田三成方が家康の非を並べて諸大名に挙兵を呼びかけた文書である、慶長5年7月17日付の「内府ちがひの条々」が陣中に届いたとされています。この文書への対応を協議したことが、次に述べる密談の日付を推定する手がかりになっています。

犬伏での密談とその結果

「犬伏の別れ」は、慶長5年(1600年)7月21日頃、下野国犬伏宿(現在の栃木県佐野市犬伏新町)で行われたとされる三者の密談です。日付は、前日の夜に「内府ちがひの条々」が届いたことから推定されたものと考えられています(平山優氏署名記事)。

密談の結果、昌幸と信繁は石田三成方(西軍)につくことを決め、信之は翻意せず家康方(東軍)に留まったと伝わります。こうして父子・兄弟は袂を分かったと考えられています(上田市立博物館「上田を支えた人々」)。

第二次上田合戦から戦後処分まで

関ヶ原の本戦に先立ち、信之は東軍の一員として、父・昌幸の居城である信濃上田城への攻撃(第二次上田合戦)に加わったとされています。

戦いの後、信之は舅の本多忠勝とともに、父と弟の助命を家康に嘆願したと考えられています。その結果、昌幸と信繁は死罪を免れ、高野山・九度山(現在の和歌山県九度山町)への蟄居となったとされます(PHPオンライン「真田信之、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走す」)。

上田藩初代藩主から松代藩初代藩主へ

信之は関ヶ原の戦功により、父の旧領だった信濃国上田領(小県郡)と上野国沼田領(利根郡)を安堵・拝領し、上田藩の初代藩主になったとされています。元和8年(1622年)には2代将軍・徳川秀忠の命で松代へ移り、松代藩真田家の初代藩主となりました(上田市「上田城の歴史」)。

石高については、上田藩時代を合計9万5千石、松代移封後を13万石とする紹介が一般向けサイトで多く見られますが、上田市の公式サイトでは具体的な記載を確認できていないため、目安として受け止めてください。

なぜ信之だけが東軍を選んだのか|史実から読み解く

父と弟が西軍についたなかで、なぜ信之だけが東軍に残ったのか。婚姻関係、研究者の指摘、弟との対比の3点から見ていきます。

本多忠勝の娘・小松殿との婚姻

信之は天正17年(1589年)、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘である小松殿(稲)を正室に迎えたと考えられています。このとき昌幸が本多家との直接の縁組を渋ったため、家康が忠勝の娘を自らの養女としたうえで嫁がせる形をとったとされます(上田市立博物館「小松殿」)。関ヶ原の11年前から、信之は家康の養女でもある女性を妻とし、徳川家と深く結びついていたことになります。

犬伏以前から決めていた可能性(平山優氏の指摘)

日本中世史研究者で、大河ドラマ「真田丸」の時代考証を務めた平山優氏は、大谷吉継が昌幸・信繁父子に宛てた慶長5年7月30日付の書状などを根拠に、新しい見方を示しています。それは、信之が犬伏の密談以前から徳川方につく意向を固めていたというものです。

平山氏は、信之が小松殿と子息をあらかじめ大坂から沼田へ帰していた可能性も指摘しています(平山優氏署名記事)。この見方に立てば、信之の東軍参加は密談の場で急に決まったのではなく、以前からの既定路線だったことになります。

ただし、信之自身がどのような心境でその判断に至ったのかを直接示す一次史料は確認されておらず、家康との縁戚関係の深さ以外に、信之個人の情勢判断や人物像まで踏み込んだ説明は今回の調査では見当たりませんでした。この点は今後の研究の進展を待つ部分といえます。

弟・信繁との対比

弟の信繁(幸村)についても、西軍の中心人物・大谷吉継の娘を正室に迎えていたことが分かっています(Yahoo!ニュース エキスパート)。兄は東軍の重臣と、弟は西軍の重臣と結ばれていたわけです。

「家を残すために意図して東西に分かれた」という説明は多くの解説で見られます。ただ、こうした婚姻関係を踏まえると、単なる役割分担だけでなく、兄弟それぞれの縁戚関係も判断の背景にあったと考えることができそうです。

諸説・論争点|通説と史実の違い

信之の東軍参加をめぐっては、研究者の間で見解が分かれる点や、史実かどうか疑問が示されている逸話があります。主な論点を表にまとめました。

論点 通説 研究者の見解
東軍参加はいつ決まったか 犬伏の密談で初めて決まった 密談以前から決めていた可能性(平山優氏)
密談の呼称・場所 犬伏宿で三者が密談した「犬伏の別れ」 昌幸・信繁は天明宿、信之は犬伏宿に別々に在陣しており「天明の別れ」とする見解
小松殿の武装逸話 沼田城で甲冑姿となり、昌幸・信繁の入城を拒んだ 当時は大坂で人質になっていた可能性(黒田基樹氏)

論点1: 密談で決まったのか、既定路線だったのか

通説では、犬伏での密談によって進む道が初めて決まったとされています。しかし前述のとおり平山優氏は、密談以前から信之の意向が固まっていたと推定しており、どちらの見方を取るかで「犬伏の別れ」の意味合いは大きく変わります。

論点2: 「犬伏の別れ」か「天明の別れ」か

密談の場所は、現在の佐野市犬伏新町の薬師堂周辺とされ、「犬伏の別れ」の名で定着しています。一方、平山氏の署名記事では、昌幸・信繁は天明宿に、信之は犬伏宿にそれぞれ在陣していたとして、「天明の別れ」と呼ぶ方が正確だとする見解が紹介されています(平山優氏署名記事)。

なお、この密談の劇的な場面描写には後世の脚色が含まれるとする見方もありますが、出典は特定できておらず、伝承として受け止めるのが無難です。

論点3: 小松殿は沼田城で武装して義父を拒んだのか

小松殿が甲冑を身にまとい、舅であっても敵となった以上は城に入れられないとして、昌幸・信繁を追い返したという逸話があります。ただし、これは江戸時代に伝わった物語に由来するもので、史実としての実在性には疑義が示されています。

黒田基樹氏(駿河台大学法学部教授)は、この時点の小松殿は大坂で石田方に人質として確保されていた可能性が高く、沼田城での対面自体が成り立ちにくいと指摘しています(駿河台大学法学部「真田丸」ワンポイント解説(33))。一方で平山氏は、前述のとおり小松殿が事前に沼田へ戻っていた可能性を指摘しており、小松殿の所在については研究者の見方が分かれています。

ゆかりの地・史跡

信之の選択をたどれる史跡は、栃木県と長野県に残っています。密談の地や藩主としての足跡を訪ねると、家族が東西に引き裂かれた決断の重みを追体験できます。訪問の際は、公開時間や料金を各施設の公式サイトで事前に確認してください(2026-09-29時点の情報に基づく紹介です)。

史跡 所在地 信之との関わり
犬伏新町薬師堂 栃木県佐野市 犬伏の別れの伝承地
上田城 長野県上田市 父・昌幸の居城、のちに信之が初代藩主
松代城 長野県長野市松代町 転封後の松代藩の居城
真田宝物館 長野県長野市松代町 松代藩真田家ゆかりの資料館
長国寺(信之公廟所) 長野県長野市松代町 信之の廟所

犬伏新町薬師堂(栃木県佐野市)

犬伏の別れの伝承地として知られる場所です。概要は佐野市観光協会「犬伏新町薬師堂」やとちぎ旅ネットで紹介されています。前述のとおり場所には「天明」説もあるため、伝承地として訪ねるとよいでしょう。

松代城・真田宝物館・長国寺(長野県長野市)

松代は、信之が元和8年(1622年)の転封後に初代藩主を務めた地です。松代藩真田家ゆかりの資料は真田宝物館で紹介されています。信之の廟所は松代の長国寺にあります。

この記事の参考書籍

信之の判断の背景をより詳しく知りたい方には、本文で紹介した研究者2人による評伝がおすすめです。犬伏の別れ以前から徳川方についていた可能性を指摘する平山優氏の一冊と、関ヶ原後の藩主としての歩みを描いた黒田基樹氏の一冊です。

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まとめ

真田信之が関ヶ原で東軍についた背景には、本多忠勝の娘・小松殿との婚姻による徳川家との強い結びつきがあったと考えられています。さらに平山優氏のように、信之の意向は犬伏の密談より前に固まっていたと見る研究者もいます。

その選択の結果、信之は父と弟の助命を嘆願し、上田藩、続いて松代藩の初代藩主として真田家を大名として存続させました。父や弟とは対照的に90歳を超える長寿を保ち、大名として家名を守り抜いた生涯だったといえます。

一方で、小松殿の武装逸話や犬伏の別れの劇的な場面には、研究者から疑問も示されています。関心を持った方は、下の参考文献や上田市立博物館・真田宝物館の資料で、通説と史実の違いをご自身でもたどってみてください。

参考文献・典拠

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