大久保利通の肖像写真(国立国会図書館「近代日本人の肖像」収録)
History

大久保利通はなぜ紀尾井坂で暗殺されたのか|西南戦争後の士族の不満など4つの要因を史実で整理する

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明治政府の中心にいた大久保利通は、なぜ東京の真ん中で命を奪われたのでしょうか。事件は西南戦争の翌年に起きたため、西郷隆盛との関係だけで説明したくなりますが、史料から見える動機はもう少し複雑です。

この記事では、紀尾井坂の変の経緯と実行犯の動機を、事典や研究者の解説で確認できる範囲に絞って整理します。一方で、脚注の乏しいWebページだけに頼った情報には触れず、裏付けが弱い点はその都度短く注記します。

結論

大久保利通は明治11年(1878年)5月14日午前、馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中、東京府麹町区紀尾井町清水谷で襲撃され、命を落としました。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれます。

日付と場所は、デジタル大辞泉や日本大百科全書など複数の事典で一致しています(コトバンク「大久保利通」)。襲撃したのは石川県士族・島田一郎を中心とする不平士族6名でした。

暗殺の動機は一つではなく、次のような複数の要因が重なったものと考えられています。

要因 内容 主な典拠
政治への批判 斬奸状で、公議の途絶・民権の抑圧・政事の私物化などを非難 文春オンライン、日本大百科全書
藩閥専制への反発 大久保を薩長中心の「有司専制」の象徴とみなした 文春オンライン(宮間純一氏の解説)
西南戦争の結末 島田は西南戦争に呼応しようとして果たせなかった 山川日本史小辞典、現代ビジネス
士族の生活困窮 明治9年の秩禄処分で多くの士族が収入を減らした 鹿児島県・福井県文書館の資料

「西郷の仇」や「独裁者だったから」という一つの理由に絞るより、政治思想と社会経済的な背景の両面から見るほうが、史実に近い理解になると考えられます。

ここからは、事件の流れ、斬奸状に示された動機、西南戦争後の士族の状況、ゆかりの地の順に見ていきます。まず、暗殺された当時の大久保がどのような立場にいたのかを確認しておきます。

大久保利通の肖像写真(国立国会図書館「近代日本人の肖像」収録)

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

暗殺当時の大久保利通の立場

事件当時の大久保の肩書きは「参議兼内務卿」です。内務卿は、内務省の長官にあたる役職です。

日本大百科全書によれば、大久保は明治6年(1873年)以降、内務卿として政府の実権を握り、岩倉具視と結んで内務省を中心とした体制を敷いたとされています(コトバンク「紀尾井坂の変」)。

この体制のもとでの政策運営が、不平士族や士族民権家の不満を募らせる一因になったと考えられています。つまり大久保は、政府への不満が向かう先として最も目立つ位置にいた人物でした。

紀尾井坂の変までの流れを年表で整理

暗殺は突然起きたように見えますが、数年がかりで不満が積み重なった結果でもあります。事典や公的資料で確認できる出来事を、元号と西暦で並べると次のとおりです。

年月日 出来事
明治6年(1873年)以降 大久保が内務卿として政府の実権を握る
明治9年(1876年) 秩禄処分。家禄・賞典禄を金禄公債証書に一括転換
明治10年(1877年)2月〜9月 西南戦争。鎮圧され、西郷隆盛は自決
明治11年(1878年)5月14日 紀尾井坂の変。大久保が襲撃され死亡
明治11年(1878年)7月27日 島田一郎が斬罪に処される

事件当日に起きたこと

5月14日の午前、大久保は麹町の自邸から馬車で赤坂仮皇居へ向かっていました。その途中、紀尾井町清水谷(現在の千代田区紀尾井町、清水谷公園一帯)で6名に襲われました。

実行犯は石川県(旧加賀藩)士族の島田一郎を中心とするグループで、最年少の杉村文一は17歳だったとされています(文春オンライン)。

襲撃の具体的な状況については、文春オンラインの記事で中央大学の宮間純一教授が、大久保が全身14か所に傷を受けたと紹介しています。この描写は宮間教授による解説であり、他の典拠でも同様に確認できたわけではありません。

なお、6名のうち島田と杉村以外のメンバーの氏名もWeb上で紹介されていますが、典拠が薄いため本記事では採用を見送りました。

実行犯のその後

島田一郎らは、犯行の直後に自首したとされています(文藝春秋 保阪正康氏の解説)。斬奸状を携え、逃亡せずに自首したことからは、彼らが行動を政治的な主張と位置づけていたと読み取ることもできます。

島田は「国事犯」として裁かれ、明治11年(1878年)7月27日に斬罪に処されたと、平凡社『世界大百科事典』(旧版)は記しています。国事犯とは、個人的な利益ではなく国家の体制に反する行為だとして罰せられる罪のことです。事件からわずか2か月余りでの処刑でした。

判決案の作成や太政官の決裁といった裁判手続きの細かな日程も紹介されることがありますが、今回参照した学術文献には記載がなく、本記事では処刑日のみを示します。

暗殺後の政府はどう変わったか

大久保利通の肖像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」収録)

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

大久保の死後、内務卿を引き継いだのは伊藤博文でした。国立国会図書館の電子展示会によれば、伊藤はこれによって政府の中心的な位置を確保したとされています(国立国会図書館「近代日本人の肖像」伊藤博文)。

襲撃犯は大久保個人を除くことで政治の転換を狙いましたが、内務卿の職はすぐに引き継がれました。暗殺によって政府の体制そのものが崩れたわけではなかったことがわかります。

斬奸状に書かれた暗殺の動機

斬奸状(ざんかんじょう)とは、「奸(よこしま)な者を斬る」理由を書き記した文書のことです。襲撃犯はこの斬奸状を携えており、そこには政府の失政が5か条にわたって挙げられていたとされます(コトバンク「紀尾井坂の変」)。

確認できる3つの非難

複数の典拠で確認できる斬奸状の内容は、次の3点です。

  • 公議の途絶:政治を公の議論にかける道を閉ざしたこと
  • 民権の抑圧:人々の権利を抑えつけたこと
  • 政事の私物化:政治を一部の者の思うままにしていること

保阪正康氏も、斬奸状には大久保の「5つの罪」が挙げられていたと述べています。いずれも、政府の意思決定が限られた人々に独占されている、という批判に集約できる内容です。

文春オンラインで宮間教授は、襲撃犯が大久保を、薩摩・長州出身者を中心とする藩閥による専制政治、いわゆる「有司専制」の象徴とみなしていたと解説しています。有司専制とは、選ばれた議会ではなく官僚(有司)が政治を独占する状態を批判する言葉です。

残り2条と起草者は確認が難しい

5か条のうち残りの2条については、具体的な文言を掲げるWebページもあります。しかし参照できたのは脚注の乏しい情報源に限られ、学術的な典拠としては心許ないため、本記事では取り上げません。

斬奸状を起草した人物の名前も一部で紹介されていますが、こちらも同様に確かな典拠は見つかりませんでした。斬奸状の全文に関心がある方は、専門書や史料集で原文に当たることをおすすめします。

「独裁者だったから殺された」と単純化しない

大久保の政治手法については、評価に幅があります。日本大百科全書は大久保の体制を「独裁政治」と表現しています。

一方で、毛利敏彦『大久保利通』(中公新書)の紹介文には、大久保を「漸進主義をとった政治家」とみる評価が示されています。漸進主義とは、急激な変革を避けて段階的に改革を進める考え方です。

斬奸状の非難はあくまで襲撃犯の側から見た大久保像です。それをそのまま大久保の実像とみなさず、立場によって評価が分かれる人物だったと理解しておくのが無難でしょう。

背景にあった西南戦争後の士族の不満

斬奸状が掲げた政治批判の背後には、士族という身分全体が置かれた厳しい状況がありました。ここでは社会経済的な背景と、島田一郎個人の経緯を見ていきます。

秩禄処分で収入を失った士族

秩禄処分とは、明治9年(1876年)に、士族に支給されていた家禄・賞典禄を金禄公債証書に一括して切り替えた政策です。これにより、多くの士族が収入を減らし、生活に困窮したとされています。

鹿児島県や福井県文書館の公開資料でも、秩禄処分は西南戦争へと至る不平士族の不満を高めた大きな要因の一つとして説明されています(鹿児島県公式資料、福井県文書館資料)。

かつての特権と収入を失った士族にとって、その政策を推し進めた政府の中心人物が大久保だった、という構図になります。

西南戦争の敗北と島田一郎の挫折

明治10年(1877年)2月から9月にかけて、西郷隆盛を盟主とする鹿児島士族らが西南戦争を起こしました。戦いは政府軍に鎮圧され、西郷は自決しています。

島田一郎は、この西南戦争に呼応して挙兵しようとしましたが、同志を集められず参戦できなかったとされています(現代ビジネス)。山川日本史小辞典にも、島田らが西南戦争に呼応しようとして果たせなかったと記されています。

武力で政府を倒す道が西南戦争の敗北で事実上閉ざされたあと、島田たちは政府の中心人物を直接狙う方向へ向かいました。事件が西南戦争終結の翌年に起きたのは、こうした流れの中に位置づけられると考えられます。

観点 西南戦争 紀尾井坂の変
時期 明治10年(1877年)2月〜9月 明治11年(1878年)5月14日
担い手 西郷隆盛を盟主とする鹿児島士族ら 石川県士族・島田一郎ら6名
手段 挙兵による武力反乱 政府要人の暗殺
結末 鎮圧され、西郷は自決 犯人は自首し、島田は斬罪

諸説・論争点:動機は一つに絞れるのか

暗殺の動機については、本記事の調査では、研究者名を挙げて「A説とB説が対立している」と整理できる論点は確認できませんでした。

よく語られる要因は、おおむね次の3つです。

  1. 斬奸状に示された、藩閥専制政治への批判という政治思想
  2. 西南戦争に参加できなかったことを含む、士族としての義憤
  3. 秩禄処分後の生活困窮という社会経済的な背景

これらは互いに否定し合う説ではなく、同時に作用した複合的な要因として紹介されることが多いようです。そのため本記事では、どれか一つを「真の動機」とは断定しません。

なお、前述した「独裁政治」「漸進主義」という2つの評価は、暗殺の動機についてのA説・B説とは別の論点です。

これは大久保の内務卿としての同じ政策運営を、どちらの側面に重点を置いて評価するかの違いであり、研究者どうしが直接論じ合う対立学説として確認できたものではありません。

そのため、ここで述べた「動機についての対立学説は確認できない」という整理と矛盾するものではなく、評価に幅がある、という理解にとどめておくのが適切です。

紀尾井坂の変ゆかりの地を訪ねる

事件の現場と大久保の墓所は、いずれも東京都心にあり、現在も訪れることができます。

清水谷公園と大久保利通哀悼碑

暗殺の現場となった清水谷は、現在の千代田区紀尾井町2の清水谷公園にあたります。園内には、高さ6.27mの「大久保利通哀悼碑」が建てられています(千代田区観光協会)。

碑の建立年を紹介する旅行情報サイトもありますが、自治体や観光協会の公式発表は見当たりません。訪問前には公式ページで最新情報を確認してください。

青山霊園の大久保利通墓

大久保利通は、東京都港区南青山の青山霊園に埋葬されています。この墓は東京都の旧跡に指定されています(港区公式サイト)。

史跡 所在地 見どころ
清水谷公園 千代田区紀尾井町2 事件現場一帯、大久保利通哀悼碑(高さ6.27m)
青山霊園 港区南青山 大久保利通の墓(東京都旧跡)

※所在地・指定状況は2026-10-11時点で各公式サイトに掲載の情報です。開園時間やアクセスは各公式サイトでご確認ください。

まとめ

大久保利通は明治11年(1878年)5月14日、紀尾井町清水谷で島田一郎ら石川県士族を中心とする6名に暗殺されました。その動機は、一つの理由では説明しきれません。

  • 斬奸状では、公議の途絶・民権の抑圧・政事の私物化などが非難されていた
  • 襲撃犯は大久保を、藩閥による「有司専制」の象徴とみていた
  • 秩禄処分による困窮と、西南戦争の敗北が士族の不満の土台にあった

一方で、斬奸状の残り2条の文言や起草者、実行犯全員の氏名などは、確かな典拠で確認しにくい情報です。Web上の断定的な記述に出会ったときは、出典をたどって確かめる習慣が役立ちます。

さらに深く知りたい方は、下の参考文献に挙げた事典や研究者の解説を読み比べてみてください。現地の清水谷公園を訪ね、哀悼碑の前で明治初期の政治の緊張を想像してみるのもおすすめです。

参考文献・典拠

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