島津久光の肖像写真(『近世名士写真 其2』より、国立国会図書館提供)
History

生麦事件はなぜ起きたのか|「島津久光の行列」と薩英戦争への経緯を史実で整理する

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「生麦事件」は幕末史で必ず名前が出る事件です。ただ、なぜ外国人が斬られる事態になったのか、なぜ薩英戦争という戦闘にまで発展したのかは、意外と整理されていません。

この記事では、島津久光の行列とリチャードソンら英国人一行の遭遇から、賠償の要求、鹿児島湾での交戦までを順にたどります。史料で確かめられる点と、通説や異説にとどまる点は分けて書きます。

結論:生麦事件はなぜ起きたのか

生麦事件がなぜ起きたかを一言で言うと、大名行列の通行作法をめぐる行き違いが直接のきっかけだったと考えられています。当時は、大名行列に出会った通行人は下馬して道を空けるのが慣例でした。

薩摩藩士は英国人一行に下馬を求めましたが、一行は応じなかったとされます。そこで行列の供頭(行列の先導役)であった奈良原喜左衛門らが斬りつけ、リチャードソンが亡くなったと考えられています(最初に斬りつけた人物については異説があり、「諸説・論争点」で後述します)。

ただし、島津久光本人が事前に斬るよう指示したのかどうかは確かめられていません。現場の判断だったのか、指示があったのかは断定できない点です。

事件のあと、イギリスは幕府と薩摩藩に別々の要求を出しました。幕府は謝罪と賠償金に応じた一方、薩摩藩は拒否します。その結果、翌文久3年(1863年)に英国艦隊が鹿児島湾へ来航し、生麦事件は薩英戦争へとつながりました。

段階 時期(旧暦/西暦) 出来事
事件 文久2年8月21日/1862年9月14日 生麦村で行列と英国人一行が遭遇し、殺傷が起きる
交渉 事件後〜文久3年(1863年) 幕府に謝罪と賠償金、薩摩藩に処罰と賠償金を要求
戦闘 文久3年7月2日〜4日/1863年8月15日〜17日 英国艦隊7隻と薩摩藩の砲台が交戦
講和 文久3年中(1863年、月は出典で差あり) 薩摩藩が賠償金を支払い和議が成立

生麦事件の経緯(年表)

ここからは、事件当日から講和までを順に見ていきます。各事実の確度(史料で確かめられるか、通説か)もあわせて示します。

島津久光の行列はなぜ東海道にいたのか

島津久光は薩摩藩主・島津茂久の実父で、藩主の後見役にあたる人物です。事件当時の久光は、公武合体(朝廷と幕府の協調)を求める勅使・大原重徳に随行して江戸へ赴き、その帰路にあったとされています。

島津久光の肖像写真(『近世名士写真 其2』より、国立国会図書館提供)

出典: Wikimedia Commons「Shimazu Hisamitsu.jpg」(パブリックドメイン)

生麦村での遭遇と下馬の慣例

事件が起きたのは文久2年8月21日(旧暦)、西暦1862年9月14日です。場所は武蔵国橘樹郡生麦村、現在の横浜市鶴見区生麦を通る旧東海道でした(コトバンク「生麦事件」)。

行列と行き合ったのは、横浜の外国人居留地から川崎大師方面へ向かっていた騎馬の英国人4人と考えられています(横浜市立図書館「生麦事件」)。4人はいずれも、当時横浜に設けられていた外国人居留地の在留者でした。

  • チャールズ・レノックス・リチャードソン(この事件で死亡した人物)
  • ウッドソープ・クラーク
  • ウィリアム・マーシャル
  • ボラデール夫人(マーシャルの従妹)

大名行列の通行時には、通行人が下馬して道を空けるのが慣例でした。薩摩藩士は一行に下馬を求めたものの、一行は応じなかったとされます(HugKum)。

斬りつけと死傷者

行列の供頭だった奈良原喜左衛門らが斬りつけ、リチャードソンが死亡したと考えられています。クラークとマーシャルは負傷し、ボラデール夫人は現場から逃れて無事だったとされます。

生麦事件を描いた錦絵「生麦之発殺」(早川松山画、1877年刊)。事件から15年後に想像で描かれた作品で、同時代の記録画ではない

出典: Wikimedia Commons「Namamugi incident.jpg」(パブリックドメイン)。後世に想像で描かれた錦絵です。

和暦(旧暦) 西暦 出来事 確度
文久2年8月21日 1862年9月14日 生麦村の旧東海道で事件が発生 一次史料
同日 同日 久光の行列と英国人4人が遭遇、下馬を求められるも応じず 研究通説
同日 同日 供頭らが斬りつけ、リチャードソン死亡、2人負傷 研究通説
文久3年 1863年 幕府が謝罪し賠償金を支払う 研究通説
文久3年7月2日〜4日 1863年8月15日〜17日 鹿児島湾で薩英戦争 研究通説

事件後の外交交渉と幕府・薩摩藩の対応

事件後、イギリス代理公使のニールは幕府に公式な謝罪と賠償金10万ポンドを求め、幕府は翌文久3年(1863年)にこれに応じて支払ったと考えられています(コトバンク「薩英戦争」)。

一方でイギリスは、事件の当事者である薩摩藩にも、加害者の処罰と賠償金2万5000ポンドを求めました。薩摩藩はこの要求を拒否したとされます。

ここで押さえておきたいのは、要求が幕府と薩摩藩の二本立てだった点です。幕府が支払いを済ませても、薩摩藩との問題は残っていました。

項目 幕府に対して 薩摩藩に対して
要求の内容 公式な謝罪と賠償金 加害者の処罰と賠償金
賠償金の額 10万ポンド(11万ポンドとする事典もあり) 2万5000ポンド
対応 文久3年(1863年)に応じて支払い 拒否
その後 幕府との間では決着 薩英戦争へ発展

なお、幕府の支払額は事典によって表記が分かれます。10万ポンドとする記述のほか、11万ポンドとし、そのうち1万ポンドは東禅寺事件の分と説明する事典もあります。

薩英戦争への発展

鹿児島湾での交戦

薩摩藩が要求を拒んだため、文久3年7月2日〜4日(旧暦)、西暦1863年8月15日〜17日に英国艦隊7隻が鹿児島湾へ来航し、薩摩藩の砲台と交戦したと考えられています(データ・マックス)。

この戦闘では、旗艦ユーリアラスが命中弾を受け、艦長と副長が戦死したとされます。英国側にも大きな損害が出た戦いでした。

一方、薩摩藩側の砲台や死傷者の具体的な被害について、確度の高い出典は今回確認できていません。双方の損害の全体像については、確認できた情報が増えた際に追って補いたい点です。

和議と賠償金の支払い

戦闘のあと、薩摩藩は幕府から2万5000ポンドを借りてイギリスへの賠償金を支払い、交渉によって和議が成立したと考えられています。

和議が成立した時期は、出典によって文久3年(西暦1863年)9月とするものと11月とするものがあります。確定できる一次史料は確認できていないため、ここでは「文久3年中」とするにとどめます。

生麦事件と薩英戦争が薩摩藩に残したもの

一連の出来事を経て、薩摩藩はイギリスへの接近と軍備の近代化を進めたとされます。攘夷(外国勢力を武力で排除しようとする考え方)から開国へと路線を転じる一因になったと考えられています(横浜市立図書館)。

史実と通説・俗説の違い

生麦事件は有名なわりに、確かめきれていない点も残っています。代表的なものを確度ごとに整理します。個別の論点の詳しい経緯は、次の「諸説・論争点」でまとめて解説します。

論点 よく語られる内容 現時点での扱い
下馬の要求 藩士が下馬を求め、一行が拒んだ 研究通説。同時代史料の直接確認はできていない
久光の関与 久光が斬るよう命じた 未確認。断定できない(次の章で解説)
死傷者 1人死亡・2人負傷 多くの事典の記述。「3名殺傷」とする事典もある
最初の斬り手 奈良原喜左衛門 異説あり(次の章で解説)

下馬を求めた記録はどこまで確かか

下馬を求めたという話は多くの解説記事にあります。ただし今回の調査では、薩摩藩側の記録や英国側の尋問記録など同時代の史料そのものは確認できていません。そのため通説として扱っています。

錦絵は記録ではない

事件の場面を描いた錦絵はよく紹介されます。ただ、上で紹介した「生麦之発殺」は事件から15年後の1877年に刊行された作品で、想像で描かれたものです。現場の様子を写した記録として読まないよう注意が必要です。

諸説・論争点

ここでは、研究者の間で見解が分かれている代表的な論点を個別に深掘りします。

久光は事前に指示したのか

島津久光本人が事前に斬るよう指示したのかどうかは確かめられていません。宮沢真一『「幕末」に殺された男 生麦事件のリチャードソン』(新潮社、1997年)には「島津久光による陰謀説」という章がありますが、著者がこの説を支持しているのか否定しているのかは確認できていません。

久光が事前に指示したのか、現場の供頭らが独自に動いたのかは、未確定の論点として読むのが妥当です。

リチャードソンに最初に斬りつけたのは誰か

研究者の間で見解が分かれている代表的な論点が、「リチャードソンに最初に斬りつけたのは誰か」です。

説A 説B
人物 奈良原喜左衛門(供頭) 奈良原繁(喜左衛門の実弟)
論拠 長らくの通説。複数の事典類が採用 長岡由秀『新釈生麦事件物語』(2008年)が長年の研究に基づき提示
出典 コトバンク「生麦事件」 文藝春秋の書籍ページ

長らく奈良原喜左衛門とされてきましたが、長岡由秀は実弟の繁である可能性を示しました。繁は維新後に明治政府に出仕し、日本鉄道会社社長や沖縄県知事を務めたとされる人物です。

通説側の根拠を研究者個人の論文までたどることはできていません。現時点では、どちらが正しいとは断定できない論点です。

ゆかりの地・史跡:生麦事件碑

事件の現場近く、横浜市鶴見区生麦には生麦事件碑が建っています。明治16年(1883年)12月8日、当時鶴見の副戸長だった黒川荘三が私費で建てたとされます(横浜市鶴見区「生麦事件碑」)。

横浜市鶴見区生麦に建つ生麦事件碑

出典: 生麦事件碑 by Saigen Jiro / CC0 1.0(Wikimedia Commons)

横浜市鶴見区の歴史解説ページ(「幕末の鶴見」no01-1.html)は建立年を「1885年(明治16年)」と記していますが、明治16年は西暦1883年にあたります。横浜市観光ページなど他の複数の出典も1883年で一致しているため、本記事では1883年としています。

訪れる場合は、所在地や最寄り駅からの道順を横浜市鶴見区の公式ページで確認してください(2026-10-23時点の情報に基づく)。

まとめ

生麦事件は、大名行列の通行作法をめぐる行き違いから起きたと考えられています。そこから幕府と薩摩藩それぞれへの要求が生まれ、薩摩藩の拒否が薩英戦争につながりました。

  • 事件は文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦村の旧東海道で起きた
  • 幕府は謝罪と賠償金に応じ、薩摩藩は処罰と賠償を拒否した
  • 文久3年(1863年8月)の薩英戦争後、薩摩藩は幕府から借りた2万5000ポンドで賠償した
  • 最初の斬り手や久光の関与など、確定していない論点も残る

流れを物語として追いたい方は、吉村昭の歴史小説『生麦事件』を読んでみるのもよいでしょう。現地の生麦事件碑を訪ねると、事件が起きた旧東海道の位置関係も実感しやすくなります。

横浜市鶴見区生麦に建つ生麦事件碑(別アングル)

出典: Namamugi jiken monument by Remioromen / CC BY-SA 3.0(Wikimedia Commons)

参考文献・典拠

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