島津義弘はなぜ関ヶ原で敗れても薩摩藩を守れたのか|敵中突破と戦後処理を史実で整理する
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島津義弘はなぜ関ヶ原で敗れても薩摩藩を守れたのか|敵中突破と戦後処理を史実で整理する

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関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)についた大名の多くは、戦後に東軍(徳川家康方)によって領地を大きく削られました。ところが島津義弘の島津家は、敗者の側にいながら本領をほぼそのまま守ったとされています。「島津義弘は関ヶ原でなぜ生き残れたのか」「なぜ徳川家康に許されたのか」と疑問に思った方も多いのではないでしょうか。

この記事では、その答えを「敵中突破(軍事)」と「戦後処理(外交)」の2つの面から整理します。あわせて、よく語られる逸話のうち、どれが後世の創作とみられるのかも出典とともに示します。

結論

先に結論を述べると、島津家は「戦場から生きて抜け出す」ことと「帰国後の交渉で領地を守る」ことの二段構えで薩摩を守ったと考えられています。関ヶ原本戦ではほとんど戦わず、西軍の敗勢が決まったあとに敵陣の中央を突破して離脱しました。これが後に「島津の退き口」と呼ばれる退却戦です。

帰国後は、当主である兄・島津義久と、義弘の嫡男・忠恒(後の家久)が中心となって約2年にわたり徳川方と交渉しました。その結果、島津氏は約61万石の本領を安堵(領地の所有を認められること)されたとされます。

島津義弘の肖像画(尚古集成館所蔵、江戸時代・作者不明)

出典: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

流れを年表にまとめると、次のとおりです(確度は本記事で依拠した資料の位置づけです)。

時期 出来事 確度
慶長5年9月15日(1600年10月21日)午前 島津軍は自陣で防御に徹し、石田三成方の要請を拒否 研究通説
同日・西軍崩壊後 家康本陣付近を含む敵陣中央を突破し、伊勢街道方面へ退却 研究通説
退却戦 甥の豊久、家老の長寿院盛淳らが殿(しんがり)となり討死 研究通説
帰国時 約1,500の兵のうち、薩摩に戻れたのは80余名程度 研究通説
帰国後 義弘は謹慎し、義久・忠恒が徳川方と交渉 研究通説
慶長7年(1602年) 忠恒が伏見城で家康に謁見し、和解が成立 研究通説
結果 約61万石の本領を安堵 研究通説

主な登場人物も整理しておきます。

人物 立場と役割
島津義弘 西軍として参陣。退き口を指揮し、帰国後は謹慎
島津義久 義弘の兄で島津家の当主。「義弘の独断」という立場で交渉
島津忠恒(家久) 義弘の嫡男。慶長7年に伏見城で家康に謁見
島津豊久 義弘の甥。殿を務め、烏頭坂付近で討死(享年31)
長寿院盛淳 島津家の家老。義弘の身代わりを申し出て討死したと伝わる
井伊直政 徳川方の重臣。追撃戦で負傷し、戦後は和平交渉の仲介役も務めた

ここからは上の結論を「関ヶ原当日」「島津の退き口」「戦後の交渉」の順に、根拠となる出典とあわせて確かめていきます。

関ヶ原当日、島津軍はなぜほとんど動かなかったのか

関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に美濃国関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)で行われたとされます。岐阜県が運営する岐阜関ケ原古戦場記念館は、島津軍について「合戦当日の午前中は防御に徹し、石田三成からの援軍要請も拒否」と紹介しています。島津軍が本戦でほとんど交戦しなかったことは、研究上の通説と考えられています。

1,500という寡兵の内訳

義弘が率いた兵力は、甥の島津豊久らを合わせて約1,500と、他の主要大名に比べて小規模だったとされます。本国薩摩の主力を動かす決定権は当主の兄・義久が握っており、義弘は上方(京・大坂周辺)にいた手勢を中心に参陣したと考えられています(刀剣ワールド)。

中世島津氏の研究者・新名一仁氏は、関ヶ原の前年に起きた庄内の乱による島津家中の分裂も踏まえ、義弘が本国の大軍を動かせない構造的な事情があったと指摘しているとされます。「動かなかった」のではなく、そもそも大きく動ける兵力ではなかったという見方です。

「無礼な使者」「夜襲策拒否」の逸話とその出典

島津軍が動かなかった理由として、よく2つの逸話が語られます。ただし、どちらも確かな史料の裏付けがあるとは言えません。

  • 夜襲策拒否:関ヶ原前夜、義弘・豊久が三成に夜襲を進言したが却下された、という逸話があります。ただし後世の編纂物に由来する話で、同時代史料の裏付けはありません(出典の詳細は後述の「諸説・論争点」で扱います)。
  • 無礼な使者:三成方の使者が馬から下りずに出兵を求めたため、島津側が無礼だと怒って要請を突っぱねた、とも伝えられています。ただし、この話の初出の史料や成立時期は今回の調査では確認できませんでした。夜襲策の逸話と同じく、江戸時代に広まった話である可能性があります。初出をさらに追いたい場合は、後掲の「参考文献・典拠」にある刀剣ワールドや『歴史街道』の関連記事から手がかりを探ってみてください。

「島津の退き口」はどう行われたのか(敵中突破と捨てがまり)

西軍の敗勢が決まったあと、島津軍が取った退却は後世「島津の退き口」と呼ばれています。ここが島津家の生き残りの第一段階です。

西軍崩壊後、島津軍はどの経路をたどったのか(家康本陣付近を通った退路)

義弘は退路を自軍の後方である西に取らず、東軍主力・徳川家康の本陣付近を含む敵陣の中央を正面から突破し、伊勢街道方面へ退いたとされます(大垣・西美濃観光ポータル「水都旅」)。

一方で、義弘がなぜこの経路を選んだのかを同時代の記録で直接確かめられる記述は、本記事で参照した資料の範囲では見つかりませんでした。理由をめぐる劇的な説明は多く出回っていますが、「前に抜けて伊勢方面へ退いた」という行動の部分と、その動機の部分は分けて読むのが安全です。

豊久・長寿院盛淳らの「捨てがまり」と烏頭坂での戦闘

退却では、殿の部隊が反転して座り込み、追手を鉄砲などで迎え撃ち、全員が討死するまで足止めする「捨てがまり(座禅陣)」という戦法が用いられたとされます。家老の長寿院盛淳も、義弘の身代わりを申し出て踏みとどまり討死したと伝えられています(刀剣ワールド)。

義弘の甥・島津豊久も殿を務め、追撃してきた松平忠吉・井伊直政・本多忠勝らの部隊と烏頭坂(現在の岐阜県大垣市上石津町牧田)付近で戦い、討死したとされます。享年31でした(関ケ原観光ガイド)。

追撃した徳川方も無傷ではありませんでした。井伊直政は島津軍の鉄砲で負傷し、その銃創がもとで慶長7年(1602年)に没したとされます。松平忠吉も負傷し、本多忠勝は乗っていた馬を撃たれたと伝えられています。

薩摩に帰還できたのは何人だったか

関ヶ原から長い退却行を経て、薩摩へ帰り着いた兵は、当初の約1,500のうち80余名程度まで減っていたとされます(サライ.jp)。大きな犠牲を払いながらも、総大将の義弘自身は生きて本国へ戻ったことになります。

帰国後、島津氏はどう家康と交渉し領地を守ったのか

生き残りの第二段階が、帰国後の交渉です。ここでは義弘本人よりも、兄と息子が前面に立ちました。

義弘の謹慎と、交渉の主体が兄・義久・息子忠恒に移った経緯

帰国した義弘は、謹慎の姿勢を取ったとされます。謹慎した場所については桜島とする伝承と、鹿児島の屋敷とする説明があり、本記事では特定しません。徳川方との交渉は、当主の義久と義弘の嫡男・忠恒が中心となって進めたと考えられています(NTT西日本 Biz Clip)。

「義弘の独断だった」という主張と約2年の時間稼ぎ

義久は「西軍への加担は義弘の独断であり、島津家としては関与していない」という立場を取り続け、家康からの上洛要求にも応じずに時間を稼いだとされます(月桂冠)。同時に、薩摩・大隅の国境の防備を固めて臨戦態勢を敷いていたとされます。

交渉の仲介役には、井伊直政・福島正則らが立ったとされます。退き口で島津軍と戦い負傷した直政が、戦後は和平の仲介に回った点は興味深いところです。交渉は約2年に及び、最終的に忠恒が慶長7年(1602年)に伏見城で家康に謁見して和解が成立したと考えられています。

本領安堵(約61万石)に至った複数の要因

交渉の結果、島津氏は関ヶ原以前とほぼ同じ約61万石で本領を安堵されたとされます。同じく西軍に与した大名と比べると、その例外ぶりがよく分かります(日経BizGate)。

大名家 戦前の石高 戦後の石高 処分の程度
島津氏 約61万石 約61万石 ほぼ変化なし
毛利氏 112万石 29万石 大幅な減封
上杉氏 120万石 30万石 大幅な減封

本領安堵の背景としては、次の要因が組み合わさったと考えられています。

  1. 徳川政権側の事情:政権は発足直後で基盤が固まっておらず、九州最南端まで遠征する長期戦を避けたかった
  2. 島津の軍事的な実績:退き口で東軍の重臣に損害を与えた戦闘力が、征討のコストを高く見せた
  3. 交渉の粘り強さ:義久・忠恒が徳川方の事情を見極めながら交渉を続けた

ただし、本領安堵を単一の理由に結びつける一次史料の裏付けは確認できていません。「島津が強かったから許された」という一言で片付けず、複数の要因の組み合わせとして理解するのが妥当でしょう。

史実と通説の違い|「島津は最初から最後まで戦い抜いた」という誤解

島津の関ヶ原は、壮絶な退却戦のイメージが強いため「最初から最後まで戦い抜いた」と語られがちです。しかし、本戦当日にはほとんど交戦していなかったと考えられています。激しく戦ったのは、主に敗勢が決まったあとの退却戦です。

語られ方と確度を並べると、次のように整理できます。

よく語られる内容 確度 整理
本戦では防御に徹し、ほぼ交戦しなかった 研究通説 公的施設の解説でも紹介されている
敵陣中央を突破して退却した(島津の退き口) 研究通説 退却の経路は広く一致して語られる
捨てがまりで殿が討死しながら足止めした 研究通説 豊久・長寿院盛淳の討死が伝えられる
前夜の夜襲策を三成に却下された 後世の創作 『落穂集』など江戸中期の編纂物に由来し、同時代史料の裏付けなし
無礼な使者に怒って出兵を拒んだ 未確認 初出の史料を確認できず、伝承の域にとどまる

諸説・論争点

研究者の間で見解が分かれる論点として、「関ヶ原本戦で島津軍がほとんど戦わなかったのは、なぜか」があります。主な説は次の2つです。

  • 説A:石田三成との確執が主因とする説。島津側が進言した夜襲策を三成方が退けたことで確執が深まり、戦意が下がったとする見方です。ただし根拠となる逸話は『落穂集』(享保12年頃成立)など後世の編纂物に由来するもので、同時代史料の裏付けはありません。『歴史街道』編集部も、疑問視する研究者が大半だと記しています。
  • 説B:寡兵という構造的な事情が主因とする説。義弘は本国の軍を動員する権限を当主・義久から得ておらず、上方の約1,500の手勢だけで参陣していたため、そもそも積極的に攻勢に出られる兵力ではなかったとする見方です。新名一仁氏は、関ヶ原前年の庄内の乱による家中分裂も踏まえてこの構造的な事情を指摘しているとされます(刀剣ワールド)。

2つの説を比較すると、次のようになります。

説 主因とする内容 根拠の強さ
説A:三成との確執 夜襲策を却下されたことへの反発で戦意が低下した 弱い(『落穂集』など後世の編纂物のみが根拠)
説B:寡兵という構造的事情 本国軍を動員できず、上方の少数兵力のみで参陣していた 比較的強い(研究者による構造的事情の指摘)

2つの説は、どちらか一方だけが正しいと決まっているわけではありません。ただ、説Aは根拠となる逸話の出典が後世のものである点に弱さがあり、この点を踏まえて読む必要があります。

ゆかりの地・史跡

関ヶ原での退き口と、その後の義弘をしのぶ行事は、現在も現地で触れることができます。訪問前には各施設・自治体の公式サイトで最新の情報を確認してください。

岐阜県関ケ原町・大垣市(島津義弘陣跡、烏頭坂 島津豊久碑、岐阜関ケ原古戦場記念館)

場所 見どころ 参考
岐阜関ケ原古戦場記念館(関ケ原町) 島津義弘ゆかりの地をめぐるコースを紹介 公式サイト
島津義弘陣跡(関ケ原町) 「陣跡」の名で伝わる史跡地。布陣の詳細を直接示す一次史料は確認できておらず、地名・現地解説に基づく紹介です 岐阜関ケ原古戦場記念館
烏頭坂 島津豊久碑(大垣市上石津町牧田) 豊久が討死したとされる付近の碑 関ケ原観光ガイド

鹿児島県日置市(徳重神社・妙円寺、妙円寺詣り)

義弘は慶長9年(1604年)に、鹿児島の妙円寺(現在の徳重神社)を自身の菩提寺に定めたとされます。義弘が元和5年(1619年)7月21日に亡くなったあと(享年85)、藩士たちが遺徳をしのび、甲冑姿で往復約40kmの道を歩いて参詣する「妙円寺詣り」が始まりました。

2026-09-27時点で、妙円寺詣りは鹿児島県日置市で続く行事として日置市公式サイトや妙円寺公式サイトで紹介されています。開催日程は年によって変わる可能性があるため、公式サイトで最新情報を確認してください。

まとめ

島津義弘が関ヶ原で敗れても薩摩を守れたのは、1つの理由によるものではないと考えられています。本記事の要点は次のとおりです。

  • 本戦当日はほとんど交戦せず、背景には約1,500という寡兵の事情があったとみられる
  • 敗勢が決まったあと、敵陣中央を突破する「島津の退き口」で義弘は生還した(帰還は80余名程度とされる)
  • 帰国後は義久・忠恒が「義弘の独断」という立場で約2年交渉し、約61万石の本領を守った
  • 「夜襲策拒否」など一部の逸話は後世の創作とみられ、史実とは区別して読む必要がある(詳細は「諸説・論争点」参照)

関ヶ原を「どちらが勝ったか」だけでなく、「負けた側がどう生き残ったか」という視点で見直すと、戦国大名の外交や家の仕組みが見えてきます。興味を持った方は、下の参考文献から一次情報に近い資料をたどったり、関ケ原や日置市のゆかりの地を訪ねたりしてみてください。

参考文献・典拠

※一般メディアの記事は、通説がどう語られているかの確認と、自治体・博物館の記述との照合に用いています。

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