柴田勝家の子孫は本当に絶えたのか|北庄城を生き延びた孫・勝重の系譜
柴田勝家は北庄城で妻お市の方とともに最期を遂げましたが、子孫にあたる血脈はそこで途絶えていません。孫とされる柴田勝重は落城時に城を脱出し、のちに徳川家の旗本になったと伝わります。史料でわかること・言い伝え・確認できていないことを分けて整理しました。

柴田勝家は北庄城で妻お市の方とともに最期を遂げましたが、子孫にあたる血脈はそこで途絶えていません。孫とされる柴田勝重は落城時に城を脱出し、のちに徳川家の旗本になったと伝わります。史料でわかること・言い伝え・確認できていないことを分けて整理しました。
織田信雄は自らの宿老3名を秀吉への内通を疑って誅殺し、徳川家康と結んで小牧・長久手の戦いに至りました。対立の発端と経緯、いまも見解が分かれる論点を、公的資料と研究者の見解から整理します。
柴田勝家の養子でありながら長浜城を秀吉に明け渡した柴田勝豊。なぜ養父を裏切る形になったのかを、同時代の記録『柴田退治記』と研究者の解説から整理し、賤ヶ岳の戦いへの影響、開城日をめぐる未確定点、ゆかりの地までを解説します。
お市の方は小谷城落城では生き延び、10年後の北庄城では自害を選びました。同時代史料『柴田退治記』と江戸期の覚書『渓心院文』を区別しながら、自害の理由をめぐる通説と俗説、生存説や出自の論争まで整理します。
佐久間盛政が秀吉の助命を断って死んだという逸話は、近世の軍記物に由来し同時代史料の裏づけがありません。賤ヶ岳の戦いから処刑までの流れを、確かめられる事実と後世の脚色に分けて整理します。
豊臣秀長と千利休はどんな関係だったのか。天正14年(1586年)の「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相」という言葉を軸に、二人の役割分担と、秀長の死が利休の運命に与えた影響を、史料の確度を分けて整理します。
浅井三姉妹の茶々・初・江は、北ノ庄城落城後にまったく違う人生を歩みました。豊臣家に残った茶々、和議を仲介した初、徳川将軍家の御台所となった江。三者三様の運命を分けた理由を出典つきで整理します。
賤ヶ岳の七本槍は同時代の記録では9人だった。外された桜井佐吉・石河兵助は誰か、なぜ7人に絞られたのか。福島正則・加藤清正ら7人の武功と、関ヶ原を経てたどり着いた場所を史料から整理します。
賤ヶ岳の戦いで前田利家はなぜ柴田勝家のもとを離れたのか。利家と勝家・秀吉それぞれの関係、戦いに至るまでの経緯を史料にもとづいて整理し、「裏切り」と語られる出来事が実際にはどう記録されているのかを確認します。
お市の方はなぜ三人の娘だけを城から出し、自分は柴田勝家と共に自害したのか。最期を伝える『渓心院文』の記述、勝家と再婚した理由、勝家が秀吉と戦うに至った経緯を史料の確度を分けて整理します。