石田三成はなぜ西軍をまとめきれなかったのか|史実を整理する
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石田三成はなぜ西軍をまとめきれなかったのか|史実を整理する

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「関ヶ原で西軍が負けたのは、石田三成に人望がなかったから」。そんな説明を目にしたことがある方は多いのではないでしょうか。ただ、西軍の内側をのぞくと、三成個人の性格だけでは説明しきれない事情がいくつも重なっています。

この記事では、石田三成がなぜ西軍をまとめきれなかったのかを、毛利輝元・宇喜多秀家・島津義弘・吉川広家・小早川秀秋との関係から整理します。同時代の史料や研究で確かめられることと、後世に広まった逸話とを分けて見ていきます。

結論

石田三成は、そもそも「西軍の総大将」ではありませんでした。 西軍の名目上の総大将は、秀吉没後の政務を合議するために置かれた有力大名5人「五大老」の一人・毛利輝元で、宇喜多秀家が副大将格として中心にあったと考えられています(日本大百科全書「石田三成」(コトバンク)、刀剣ワールド「西軍総大将 毛利輝元」)。三成は、政権の実務を担った奉行衆「五奉行」の一人という立場で、公式に諸大名を統率する地位にはなかったとされます。

そのうえで、西軍の主要な大名たちはそれぞれ固有の事情を抱えていました。主な要因を整理すると、次のようになります。

  • 指揮系統の弱さ:三成は総大将ではなく、前年の政変で政務からも退いていた
  • 毛利家の不戦:一門の吉川広家が、輝元らに諮らず独断で徳川方と不戦の密約を結んでいた
  • 宇喜多家の弱体化:家中の内紛(宇喜多騒動)で有力な家臣団を欠いていた
  • 島津家の内部対立:当主の島津義久が援軍派遣に応じず、義弘は少数の手勢で参戦した
  • 小早川秀秋の寝返り:ただし「三成の讒言で恨まれていた」という説は後世の創作の可能性が高い

つまり西軍の不統率は、「三成の人望」という一つの原因ではなく、構造的な弱さと各大名の内部事情が重なった結果と見るのが妥当です。以下、順に見ていきます。

関ヶ原合戦までの経過年表

ここからは、関ヶ原合戦当日までの経過と、西軍内部で何が起きていたのかを年表で確認していきます。

関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(旧暦、1600年)に美濃国関ヶ原で行われました。徳川家康方の東軍は約9万、石田三成を中心とする西軍は約8万とされ、小早川秀秋の寝返りもあって東軍が勝利したと考えられています(日本大百科全書「関ヶ原の戦い」(コトバンク))。

関ヶ原合戦までの経過年表。西軍内部の出来事を時系列で整理した図解

日付はいずれも旧暦です。右端の「確度」は、その記述がどの程度史料で裏付けられるかの目安です。

時期 西軍内部の出来事 確度
慶長4年(1599年)閏3月 福島正則・加藤清正らが三成の排斥を求めて動き、三成は政務を退いて佐和山城へ 研究通説(実態は諸説あり)
慶長4年末〜5年(1599年末〜1600年) 宇喜多家で重臣が対立・出奔する「宇喜多騒動」 研究通説
慶長5年(1600年)7月15日〜17日 毛利輝元が広島を出発し、2日後に大坂へ到着 研究者の指摘(評価は諸説あり)
慶長5年(1600年)9月14日 吉川広家が独断で徳川方と毛利軍不戦の密約 研究通説
慶長5年(1600年)9月14日夜 豪雨の中、西軍主力が大垣城を離れ関ヶ原へ移動 研究通説
同夜 島津の夜襲進言が退けられたという逸話 後世の創作(『落穂集』由来)
慶長5年(1600年)9月15日 関ヶ原で交戦。小早川秀秋の寝返りもあり西軍敗北 研究通説
戦後 毛利家は周防・長門2か国へ減封 研究通説

西軍の指揮系統はどうなっていたか

「三成=西軍の総大将」というイメージは根強いものの、実際の立場はもっと限定的だったと考えられています。ここでは三成と諸大名の位置関係を整理します。

西軍の指揮系統の図解。毛利輝元が名目上の総大将、宇喜多秀家が副大将格、石田三成は五奉行の一人

毛利輝元・宇喜多秀家・石田三成の立場

西軍の主要人物の立場を、表にまとめると次のとおりです。

人物 立場 西軍での位置づけ
毛利輝元 五大老の一人 名目上の総大将
宇喜多秀家 五大老の一人 副大将格として中心にあった
石田三成 五奉行の一人 西軍の中心人物だが、公式の総大将ではない

大老である輝元や秀家に対し、三成は奉行という一段下の立場でした。大大名を動かすには、輝元や秀家の権威を借りる必要があったと考えられます。

七将襲撃事件と三成の政治的失脚

三成の立場をさらに弱めたのが、慶長4年(1599年)閏3月の政変です。豊臣秀吉の没後に対立が表面化し、福島正則・加藤清正ら武断派の大名たちが三成の排斥を求めて動きました。従来「七将襲撃事件」と呼ばれる出来事で、三成は五奉行の政務から退き、居城の佐和山城へ退去したと考えられています(日本大百科全書「石田三成」)。

ただし、この事件の実態には異論があります。別府大学教授の白峰旬氏は2018年の論文で、七将が三成を武力で襲撃したことを示す同時代史料は確認できず、実態は訴訟沙汰だったと論じています(CiNii 論文情報)。現時点では武力襲撃説と訴訟説のどちらか一方には決められず、本記事では両論を併記します(詳細は後出の「諸説・論争点」)。どちらの理解をとるにせよ、関ヶ原の前年に三成が政権の中枢から外れていたことは、諸大名への影響力を考えるうえで見逃せません。

「三成が独裁的に指揮した」とは言い切れない

西軍の意思決定が、輝元・秀家と奉行衆による合議だったのか、三成が事実上主導していたのかは、本記事で確認できた範囲では研究者の論考による裏付けが十分ではありません。そのため、ここでは「三成がすべてを指揮していた」とも「三成は無関係だった」とも断定しません。確かなのは、三成が単独で大名に命令できる公式の地位になかった、という点です。

毛利輝元と毛利軍はなぜ関ヶ原で戦わなかったのか

西軍の名目上の総大将である輝元は、挙兵後も大坂城にとどまり続け、自らは関ヶ原の戦場に向かいませんでした。この「輝元が大坂城にとどまったこと」自体は、名目上の総大将としての立場に基づくもので、特段異論のない事実です。これに対し、現地に出ていた毛利の軍勢が実際に戦闘へ参加しなかった背景には、総大将の意向とは別に進んでいた交渉がありました。

輝元の大坂入城

歴史研究者の渡邊大門氏によれば、輝元は慶長5年(1600年)7月15日に三奉行の出陣要請を受けて広島を出発し、わずか2日後の7月17日には大坂に到着しました。そして家康方の拠点だった大坂城西の丸を占拠したとされます(渡邊大門「毛利輝元の西軍加担」Yahoo!ニュース エキスパート)。総大将が大坂にありながら、関ヶ原では毛利勢が戦いませんでした。その背景にあったのが、次に見る吉川広家の動きです。

この素早い動きについては、現在は輝元の積極性の表れと見る説と、担がれた結果と見る説の両方があり、本記事では断定を避けます(両説の詳細は後出の「諸説・論争点」)。

吉川広家の独断と「不戦の密約」

毛利軍が関ヶ原で戦わなかったことを決定づけたのは、一門の吉川広家でした。広家は慶長5年(1600年)9月14日、毛利輝元・毛利秀元・安国寺恵瓊らに諮ることなく、独断で黒田長政を介して徳川方と密約を結んだと考えられています。内容は、毛利軍が戦わない代わりに毛利領を安堵するというものでした(山口県「山口きらめーる」)。

総大将の家中で、総大将本人の知らないところで不戦が約束されていたことになります。三成がどれほど西軍の結束を図ろうとしても、毛利勢が動かない前提が裏で固まっていた以上、統率には大きな限界がありました。

密約の破綻と減封

広家の密約は、毛利家を守るという目的も果たせませんでした。戦後、大坂城から西軍への連判状に輝元の花押(署名代わりの印)が見つかったことなどを理由に、当初の本領安堵の約束は反故にされたと考えられています。毛利家は周防・長門の2か国へ減封されました(武将ジャパン「吉川広家の生涯」)。

宇喜多秀家・島津義弘との関係に見える西軍内部の分裂

毛利家だけでなく、西軍の主力である宇喜多家と島津家も、関ヶ原の前から内部に問題を抱えていました。

宇喜多騒動で弱体化した宇喜多家

慶長4年末から慶長5年(1599年末〜1600年)にかけて、宇喜多秀家の家中では重臣の戸川達安ら複数の家老が、秀家の側近の処遇をめぐって対立し、出奔しました。これが「宇喜多騒動」です。騒動は家康の仲裁で収拾したものの、宇喜多家は有力な家臣団を欠いた状態で関ヶ原を迎えたと考えられています(刀剣ワールド「宇喜多秀家の歴史」)。

副大将格の秀家の軍が、経験ある重臣を失っていたことになります。西軍の中核ですら万全ではなかった点は、三成の統率力とは別の次元の問題です。

島津義久・義弘の確執と乏しい援軍

島津義弘は、本国・薩摩の当主である兄・島津義久と対立していました。義久は豊臣政権と距離を置く方針から義弘への援軍派遣に応じず、義弘は少数の手勢のまま西軍に加わることになったと考えられています(刀剣ワールド「西軍 島津義弘」)。

具体的な兵数は「1500人程度」と紹介されることがありますが、一次史料に基づく正確な人数は複数の典拠で確認できていません。いずれにせよ、島津家が家として総力を挙げた参戦ではなかった点が重要です。

「夜襲進言の却下」は後世の逸話

慶長5年(1600年)9月14日の夜、三成率いる西軍主力は豪雨の中で大垣城を離れ、関ヶ原へ移動したと考えられています(小和田泰経氏の解説(しろびと))。

この前夜に、島津義弘・豊久が三成に夜襲を進言し、三成の家臣・島左近らがこれを退けたという逸話がよく知られています。しかしこの逸話は、江戸期に成立した編纂物『落穂集』に由来するもので、同時代史料の裏付けはありません(歴史街道)。「島津が三成に不信感を抱いた決定的な場面」として語られがちですが、史実として扱うには注意が必要です。

「三成は人望がなかった」という通説と、史料から見える実態の違い

西軍の敗因を三成の人柄に求める説明は分かりやすい反面、後世の脚色が混ざっていることがあります。代表例が小早川秀秋との関係です。

小早川秀秋への「讒言」説は後世の創作か

秀秋は文禄・慶長の役の後に筑前・筑後を没収されました。その原因を三成の讒言(目上の人に他人を悪く言うこと)に求める説がありますが、これは『藩翰譜』など後世の史料に由来する説です。

渡邊大門氏は、三成自身の書状(宇津木文書、慶長4年(1599年)5月)から、三成が筑前拝領を辞退し、秀秋の越前転封に伴って代官として一時的に同地を預かったにすぎないことが確認できると指摘しています。そのうえで讒言説は、後世に三成を悪役に仕立てるために広まった誤りだとしています(渡邊大門「小早川秀秋と讒言説」Yahoo!ニュース エキスパート)。「秀秋は三成を恨んでいたから寝返った」という説明は、少なくともこの讒言説を根拠にはできません。

大名ごとの事情を並べて見る

ここまでの内容を、大名ごとに整理します。

大名 西軍での立場 抱えていた事情 確度
毛利輝元 名目上の総大将 一門の吉川広家が独断で不戦の密約 研究通説
宇喜多秀家 副大将格 宇喜多騒動で有力家臣を欠く 研究通説
島津義弘 西軍に参加 兄・義久が援軍派遣に応じず少数で参戦 研究通説
小早川秀秋 西軍に参加 合戦中に寝返り(讒言による恨みという説は後世の創作の可能性) 研究通説/後世の創作
石田三成 五奉行の一人 前年に政務を退き、公式の統率権を持たない 研究通説

並べてみると、問題の多くは三成の手の届かない各家の内部で起きていました。「人望がなかった」という一言で片づけると、こうした構造が見えなくなります。

ゆかりの地・史跡

この記事に登場した場所のうち、現地を訪ねられる主な史跡を紹介します。

史跡 所在地 記事との関わり
佐和山城跡 滋賀県彦根市 三成の居城。慶長4年(1599年)の政変後に退去した先
大垣城 岐阜県大垣市 西軍主力が関ヶ原へ移動する前の拠点
関ヶ原古戦場 岐阜県関ケ原町 慶長5年(1600年)9月15日の決戦の地

交通手段や開館時間、入場料などは変わることがあります。訪問前に各自治体や施設の公式サイトで最新情報を確認してください。

諸説・論争点

本記事のテーマに関わる論点のうち、研究者の間で見解が分かれている2点を両論併記で紹介します。

七将の行動は武力襲撃か、訴訟か

  • 説A:武力襲撃説(通説) 福島正則・加藤清正ら七将が武装して三成を襲撃しようとした、とする理解です。江戸期以来広く流布し、多くの一般向け概説や事典的記述の前提になっています。
  • 説B:訴訟説 白峰旬氏は論文「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動』である」(『史学論叢』48号、2018年)で、同時代史料に武力衝突を示す記述がないことを示し、実態は訴訟沙汰だったと論じています(CiNii、紹介記事:歴史街道)。

毛利輝元は消極的だったのか、積極的だったのか

  • 説A:消極的加担説(通説) 輝元は三成らの要請でやむを得ず総大将に祭り上げられただけで、本心では乗り気でなかったとする理解です。一般向けの概説に広く見られます。
  • 説B:積極的加担説 渡邊大門氏は、慶長5年(1600年)7月15日に広島を発って17日には大坂に着き、大坂城西の丸を占拠した動きに注目します。そのうえで「大坂に到着している、という2日間での移動は、事前に三成らの挙兵計画を知らなければ不可能」と述べ、輝元は主体的に行動していたと論じています(Yahoo!ニュース エキスパート)。

どちらの説をとるかで、「三成が輝元を担いだ」のか「輝元自身も主体だった」のかという西軍の見え方が変わります。現時点ではどちらか一方に決めず、両方の可能性を念頭に置いて読むのが安全です。

まとめ

石田三成が西軍をまとめきれなかった理由は、「人望がなかった」という一言では説明しきれません。三成は公式の総大将ではなく、関ヶ原の前年には政務からも退いていました。そのうえで、毛利家では吉川広家が独断で不戦の密約を結び、宇喜多家は宇喜多騒動で弱り、島津家は義久の協力を得られないまま参戦していました。

一方で、島津の夜襲進言の却下や小早川秀秋への讒言といった、三成の評判を下げる有名なエピソードの中には、後世の編纂物に由来するものも含まれています。西軍の不統率は、指揮系統の構造的な弱さと、各大名が抱えていた固有の事情が重なった結果と見るのが妥当でしょう。

特に「毛利輝元は本当に消極的だったのか」という論点が気になった方は、下の参考文献にある渡邊大門氏の論考から読んでみてください。逸話と史料を区別して読むと、三成の人物像も違って見えてくるはずです。

参考文献・典拠

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