黒田長政はなぜ関ヶ原で東軍についたのか【史実でわかる3つの理由】
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黒田長政はなぜ関ヶ原で東軍についたのか【史実でわかる3つの理由】

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結論

関ヶ原の戦いで、東軍勝利の立役者の一人に数えられる黒田長政。豊臣秀吉のもとで育った武将が、なぜ徳川家康の側についたのでしょうか。父・黒田官兵衛がそのとき何をしていたのかも、気になるところです。この記事では、史料で確かめられることと後世の逸話を分けながら整理します。

黒田長政をめぐる関ヶ原の人間関係図

出典: 黒田長政・浅野幸長連署書状(桑原羊次郎氏所蔵文書)、吉川家文書(東京大学史料編纂所編『大日本古文書』)、渡邊大門氏解説を基に作成

先に結論をまとめると、黒田長政が東軍についた背景は次の3つの流れで説明できます。

  1. 石田三成との対立:朝鮮出兵での戦功評価をめぐる不満から、慶長4年(1599年)に三成を襲撃する側に加わったとされています(七将襲撃事件)。
  2. 家康との婚姻による接近:慶長5年(1600年)6月、家康の養女・栄姫を継室(後妻)に迎えたとされ、家康との結びつきを強める政治的な意味があったと考えられています。
  3. 東軍の勝利に自ら賭けた:小早川秀秋や毛利家の吉川広家に働きかけた書状が現存しており、長政が調略の実務を担ったことは一次史料で確かめられます。

三成への反感という感情面だけでなく、婚姻と調略という具体的な行動を積み重ねていった点がポイントです。一方、父の官兵衛は同じ時期に九州で独自に兵を挙げており、親子の動きは必ずしも同じではありませんでした。

本文

黒田長政は、永禄11年(1568年)に播磨姫路城で黒田官兵衛(孝高、のちの如水)の嫡男として生まれたとされています(Wikipedia「黒田長政」)。以下の各章では、それぞれの出来事を「同時代の史料で直接確かめられること(一次史料)」と「研究者の間でおおむね受け入れられている見方(研究通説)」に区別しながら見ていきます。史料の性格によって断定の度合いが変わるため、章ごとの表現の違いにも注目してください。

黒田長政と石田三成の対立から関ヶ原までの経緯(年表)

まずは関ヶ原前後の動きを時系列で確認します。日付は旧暦で、西暦は参考として併記しています。

時期(旧暦) 西暦 出来事 確度
慶長4年閏3月 1599年 前田利家の死去後、七将襲撃事件に加わる 研究通説
慶長5年6月6日 1600年 糸姫と離縁し、家康養女・栄姫を継室に迎える 研究通説
慶長5年8月28日 1600年 浅野幸長と連名で小早川家家老・平岡頼勝へ書状 一次史料
関ヶ原本戦前 1600年 吉川広家と書状・起請文を交わす 一次史料
慶長5年9月15日 1600年10月21日 関ヶ原本戦。笹尾山方面で三成勢と戦う 研究通説
慶長5年12月 1600年 筑前一国を与えられ名島城に入る 研究通説

朝鮮出兵での確執と七将襲撃事件(慶長4年閏3月)

慶長4年閏3月、大老・前田利家が亡くなると、長政は福島正則・加藤清正・藤堂高虎・蜂須賀家政・細川忠興・浅野幸長らとともに、石田三成の大坂屋敷へ向かう行動を起こしたとされています。三成は伏見城へ退き、家康の仲裁によって佐和山城で蟄居(謹慎して城にこもること)することになりました(Wikipedia「七将襲撃事件」)。

この対立の背景には、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)での戦功の評価や報告をめぐる不満があったと考えられています(WEB歴史街道)。

ただし、戦場での行動を悪く報告したのが誰だったのかは解説によって説明が食い違っています。三成本人だったとする説と、三成の妹婿で軍目付(戦場での働きを監察・報告する役)だった福原長堯だったとする説があり、確実にいえるのは「三成側からの報告が引き金になったとされる」という程度です。

糸姫との離縁と栄姫(家康養女)との婚姻(慶長5年)

長政は天正12年(1584年)に蜂須賀正勝の娘・糸姫と結婚していましたが、慶長5年に離縁したとされています。そして同年6月6日、家康の養女(実父は保科正直)である栄姫を継室に迎えました(渡邊大門氏の解説)。

関ヶ原合戦のわずか3か月あまり前の婚姻です。家康との結びつきを強める政治的な意味合いを持っていたと考えられており、長政が三成への反感だけで動いたわけではないことをうかがわせます。

東軍調略:小早川秀秋・吉川広家への働きかけ(慶長5年8月)

慶長5年8月28日、長政は浅野幸長と連名で、小早川秀秋の家老・平岡頼勝(長政の縁戚)を通じて書状を送りました。北政所(高台院)との関係を根拠に、東軍への加担を求める内容です。この書状は「桑原羊次郎氏所蔵文書」として伝わっています(幻冬舎plus・渡邊大門氏の記事)。秀秋側の動きについては、小早川秀秋の記事で詳しく扱っています。

長政はさらに、毛利家家臣の吉川広家とも書状や起請文(違えないことを神仏に誓う文書)を交わし、本戦で毛利勢が戦わない(傍観する)約束を取り付けました。この往復文書は「吉川家文書」として東京大学史料編纂所編『大日本古文書』に収められ(東京大学史料編纂所)、山口県岩国市の吉川史料館にも現存します。

なお長政は晩年、元和9年(1623年)に亡くなる前後に記したとされる遺言覚で、毛利家・小早川家を東軍に引き入れた経緯を書き残したとされています。ただし合戦から20年以上たってからの本人の回想であり、自らの功績を語る文書として読む必要があります。

関ヶ原本戦での武功(慶長5年9月15日)

黒田長政・関ヶ原前後の年表

出典: 黒田長政・浅野幸長連署書状(桑原羊次郎氏所蔵文書)、吉川家文書(東京大学史料編纂所編『大日本古文書』)、渡邊大門氏解説、福岡市博物館解説リーフレットを基に作成

慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)の本戦で、長政の部隊は三成の本陣に近い笹尾山方面に布陣したとされています。家臣の菅正利(通称六之助)が率いる鉄砲隊が側面から攻撃し、三成の重臣・島清興(左近)を負傷させたと伝わります(渡邊大門氏の解説)。島左近がその後どうなったかは確定しておらず、後述の「諸説・論争点」で整理します。

戦後の筑前拝領(慶長5年12月)

戦後の慶長5年12月、長政は関ヶ原での功によって筑前一国52万3000余石を与えられ、名島城に入ったとされています。名島城が手狭だったため、慶長6〜7年にかけて福崎の地に新しい城と城下町を築き、備前福岡にちなんで「福岡」と名付けました(福岡市博物館)。

52万3000余石という数字は博物館や事典類で一致していますが、本記事では検地帳などの原本までは確認できていません。現在の福岡という地名は、長政が東軍についた結果として生まれたといえます。

史実と通説の違い

長政の関ヶ原をめぐっては、よく知られた逸話でも史料の裏付けが弱いものがあります。代表的な2つを確認します。

三成に陣羽織を与えた話は後世の逸話

関ヶ原の後、捕らえられた石田三成に長政が自分の陣羽織を着せて労ったという話がよく紹介されます。しかしこれは江戸時代の武辺咄集『武功雑記』(松浦鎮信の編とされる)に記された逸話で、同時代の史料による裏付けはありません(和樂web)。人物像を伝える逸話として楽しみつつ、史実とは区別して読むのが無難です。

小山評定で福島正則を説得した話は裏付けがない

いわゆる「小山評定」で長政が福島正則を説得し、東軍参加の流れを決定づけたという話も広く知られています。しかし、この場面を裏付ける一次史料は確認されていません。そもそも小山評定が実際に開かれたのかどうか自体が、研究者の間で争われています。

諸説・論争点

研究者の間で見解が分かれている論点を3つ取り上げます。どちらか一方に決めつけず、両方の説を並べて紹介します。

論点 説A 説B
小山評定は実在したか 実在した(本多隆成氏) 後世の創出である(白峰旬氏)
官兵衛の九州での挙兵の狙い 天下取り・第三極を狙った(橋場日月氏) 東軍方としての勢力拡大(渡邊大門氏)
島左近の最期 関ヶ原で討死した 戦場を離れて生き延びた

小山評定は実在したのか

白峰旬氏(別府大学教授)は、開催を明記した一次史料がないとして、小山評定は家康を正当化するために後世に創出された「フィクション」だと論じています(CiNii:白峰旬「小山評定は歴史的事実なのか」)。

一方、本多隆成氏(静岡大学名誉教授)は、複数の状況証拠から評定という形の合議はあったと考えるのが妥当だとしています。長政の「説得」の逸話も、この論争が決着するまでは史実と断定できません。

父・黒田官兵衛の九州での挙兵は天下取りの野心だったのか

関ヶ原と同じころ、家督を長政に譲っていた官兵衛(如水)は、豊後・豊前で自前の兵を挙げました。西軍についた大友義統らを破り、九州北部の大半を制圧したとされ、「九州の関ヶ原」と呼ばれています。

この行動について、歴史作家の橋場日月氏は、官兵衛が政局の混乱を早くから予測し、九州の主導権を握って「第三極のキーマン」になることを狙っていたとみています(WEB歴史街道)。

一方、渡邊大門氏は、官兵衛の所領は十数万石にすぎず家康らに対抗できる実力はなかったとし、「野望説」は後世の二次史料を膨らませた見方で、東軍方としての勢力拡大と理解すべきだとしています(渡邊大門氏の解説)。

どちらの説をとるにしても、長政が家康のそばで調略を担い、父が九州で別の戦いをしていたという親子の構図は変わりません。

島左近は関ヶ原で討死したのか

渡邊大門氏は、島左近が黒田家臣の菅六之介(正利)に討ち取られ、笹尾山付近で討死したとする説を有力とみています。首実検で首が見つからなかったのは戦場の混乱によるものだという見方です。

一方で、戦場を離れて京都に潜伏し、寛永9年(1632年)に亡くなったとする生存説も伝わっています。ただしこの説は江戸時代の二次史料『石田軍記』に由来し、信頼性には疑問が残ります。

ゆかりの地・史跡

長政の関ヶ原と、その後の福岡藩につながる場所を紹介します。

史跡 場所 長政とのつながり
岡山烽火場(黒田長政・竹中重門陣跡) 岐阜県(関ヶ原古戦場) 関ヶ原本戦の陣跡
福岡城跡(舞鶴公園) 福岡県福岡市 筑前拝領後に築いた城
崇福寺・黒田家墓所 福岡県福岡市博多区 福岡藩主黒田家の墓所

関ヶ原古戦場・岡山烽火場

関ヶ原古戦場には、黒田長政と竹中重門の陣跡とされる「岡山烽火場」があります。現地を訪れる前に、岐阜関ケ原古戦場記念館の解説で長政の動きを確認しておくと、陣の位置関係がつかみやすくなります。

福岡城跡と崇福寺

福岡城跡は、長政が筑前拝領後に築いた城の跡で、現在は舞鶴公園として整備されています。関ヶ原での選択が、現在の福岡の町並みにつながっていることを実感できる場所です。

福岡市博多区の崇福寺には福岡藩主黒田家の墓所があり、山門は福岡城本丸の表御門を移築したものです(福岡市の文化財)。公開状況や見学の可否は変わることがあるため、訪問前に公式情報を確認してください。

まとめ

黒田長政が関ヶ原で東軍についた理由は、石田三成との対立だけでは説明しきれません。家康養女・栄姫との婚姻で家康に近づき、小早川秀秋や吉川広家への調略を自ら担うという、具体的な行動の積み重ねがありました。調略の書状は一次史料として残っており、長政が東軍の勝利に深く関わったことは確かめられます。

一方で、陣羽織の逸話や小山評定での説得の話は、史料の裏付けが弱いか論争中です。長政の関ヶ原を調べるときは、「どの史料に基づく話か」を意識すると理解が深まります。石田三成と徳川家康の対立や小早川秀秋の記事から同じ合戦を見直してみると、長政の調略がどれほど大きな意味を持ったかが、より立体的に見えてくるはずです。

参考文献・典拠

本文中の該当箇所には出典を逐一リンクしています。ここでは各カテゴリの代表的な出典のみ挙げます。

一次史料・史料集

研究者の論考・解説(渡邊大門氏・橋場日月氏による個別の解説は本文中にリンク済み)

博物館・自治体・事典(福岡市博物館・福岡市の文化財・岐阜関ケ原古戦場記念館は本文中にリンク済み)

さらに詳しく知るための書籍

  • 渡邊大門『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』角川選書(KADOKAWA)
  • 中野等『黒田孝高』人物叢書(吉川弘文館)

※本記事の情報は2026-09-28時点で確認したものです。

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