立花宗茂の肖像(和歌山・大円院所蔵本を東京大学史料編纂所が模写したもの)
History

立花宗茂はなぜ改易されても大名に返り咲けたのか|史実を整理する

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結論

関ヶ原の戦いで西軍に属し、領地をすべて没収された立花宗茂は、のちに大名へ返り咲き、約20年後には旧領の筑後柳川へ戻っています。同じ西軍でも処刑や流罪になった武将がいるなかで、なぜ宗茂は大名に復帰できたのでしょうか。この記事では、改易から旧領復帰までの道のりを年表で追い、よく語られる逸話が史実なのか後世の創作なのかも区別して整理します。

立花宗茂の肖像(和歌山・大円院所蔵本を東京大学史料編纂所が模写したもの)

立花宗茂像(模本)。出典: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

宗茂の復帰は一度の赦免によるものではなく、段階的な積み上げによるものと考えられています。改易後は他家の家臣にならずに独立の身分を保ち、江戸で徳川家の重臣・本多忠勝の世話と仲介を受けて、幕府に取り立てられました。幕臣として5000石で再出発した宗茂は、陸奥棚倉(現在の福島県)で1万石を得て大名に復帰し、その後の加増を経て、元和6年(1620年)に旧領・筑後柳川10万9200石へ戻っています。具体的な年ごとの石高の推移は、次の「改易から大名復帰までの道のり」の年表にまとめています。

関ヶ原で西軍に属して改易された大名のうち、旧領へ完全に戻れた例は宗茂のみとされています(渡邊大門氏の解説(Yahoo!ニュース個人))。ただし、徳川家康・秀忠がなぜ宗茂を重用したのかという動機については複数の説明があり、一つの理由には絞り切れません。

年代表記についての注記

ここからは、関ヶ原前後の動きから旧領復帰までを順に見ていきます。本文の年代・石高は、特に断りがない限り歴史解説で広く受け入れられている研究上の通説に基づくもので、月日は旧暦で表記しています。逸話については、出典の性格もあわせて示します。

立花宗茂の生涯・関ヶ原までの流れ

宗茂の転落は、関ヶ原の本戦そのものではなく、その前後に起きた二つの戦いから始まります。まずは改易に至るまでの流れを確認しましょう。

大津城攻めと関ヶ原本戦への不参加

慶長5年(1600年)、宗茂は西軍に属しましたが、9月15日の関ヶ原本戦には参加していなかったと考えられています。このとき宗茂は、東軍についた京極高次が守る近江の大津城を攻める軍に加わっていました(大津城の戦い – Wikipedia)。

大津城は、本戦と同じ9月15日に開城したとされています。しかし同じ日に関ヶ原で西軍が敗れたため、宗茂は攻城の成果を生かせないまま、敗北を知って大坂城へ退いたと考えられています。

柳川開城と改易(慶長5年10月〈旧暦〉)

居城の筑後柳川へ戻った宗茂を待っていたのは、東軍方の攻撃でした。黒田孝高(如水)・加藤清正・鍋島直茂らの軍勢に攻められ、江上・八院の戦いを経て、慶長5年(1600年)10月に柳川城を開城したと考えられています(刀剣ワールド「立花宗茂」)。

この開城によって宗茂は改易され、浪人となりました。改易とは、大名としての身分と領地を取り上げる処分のことです。ここから、宗茂の約20年に及ぶ復権の道のりが始まります。

改易から大名復帰までの道のり

改易から旧領復帰までの流れを、身分と石高の変化で整理すると次のようになります。

年(元号・西暦) 出来事 身分・石高
慶長5年(1600年)10月 柳川城を開城し改易 浪人
改易後 肥後高瀬に仮寓し、加藤清正・前田利長からの仕官の誘いを固辞 浪人(独立の身分)
慶長8年(1603年) 江戸へ下り、本多忠勝の世話で蟄居 浪人
慶長9年(1604年) 本多忠勝の仲介で御書院番頭に就任 5000石
慶長11年(1606年) 陸奥棚倉に所領を得る 1万石(大名復帰)
慶長15年(1610年) 陸奥赤館・上総山辺郡で加増 計3万石
元和6年(1620年) 筑後柳川を与えられ旧領復帰 10万9200石

※いずれも研究通説に基づきます。大名復帰の年については出典間で食い違いがあるため、「諸説・論争点」で補足します。

浪人時代|加藤清正・前田利長の誘いを固辞

改易後の宗茂は、加藤清正の所領である肥後高瀬に身を寄せた(仮寓した)と考えられています。この間、清正と前田利長の双方から家臣になるよう勧められましたが、宗茂はいずれも断り、独立の身分を保ったとされます(戦国ヒストリー)。

有力大名の家臣にならず独立の身分を保ったことが、のちに幕府から直接取り立てられる前提になったと見ることもできます。

江戸下向と本多忠勝の仲介(慶長8〜9年)

江戸へ下った宗茂を蟄居先で世話したのは、徳川四天王の一人に数えられる本多忠勝でした(刀剣ワールド「武将年表」)。蟄居とは、外出を控えて謹慎することを指します。忠勝がなぜ改易された外様の元大名の面倒を見たのかは史料から詳細を特定できませんが、忠勝の仲介で就いた御書院番頭は将軍の親衛隊長格の役職であり、これが大名復帰への足がかりになったと考えられています(渡邊大門氏の解説)。

棚倉1万石での大名復帰(慶長11年)

陸奥棚倉(南郷、のちに赤館城主)での大名復帰は、柳川開城から約6年というタイミングで実現しました(歴史街道、棚倉町公式サイト)。九州の柳川から遠く離れた東北の地であり、旧領そのものへの復帰ではなかった点に注意が必要です。その後の陸奥赤館・上総山辺郡での加増も、旧領柳川の石高と比べればまだ小さな所領で、段階を踏んで地位を回復していった様子がうかがえます。

旧領・柳川への復帰(元和6年)

関ヶ原後の開城から、およそ20年を経ての旧領復帰でした(刀剣ワールド「立花宗茂」)。改易された大名が幕臣・小大名を経て旧領そのものに戻れた例は他になく、この最終段階こそが宗茂の復帰を「異例」たらしめている部分です(他の西軍大名との比較は次章で詳しく取り上げます)。

柳川城跡の現況。宗茂が改易前と元和6年の復帰後に城主を務めた柳川城の跡

出典: “Yanagawa Castle” by 663highland / CC BY-SA 3.0

復帰後の宗茂が幕府から特別な待遇を受けていたことをうかがわせる記述もあります。江戸後期に編纂された幕府の正史『徳川実紀』や家譜『立斎旧聞記』には、宗茂だけが将軍の御前で頭巾をかぶり、殿中で杖をつくことを特例として許されていたとする記述が見えます(立花宗茂 – Wikipedia)。ただし、いずれも後の時代にまとめられた記録である点には留意が必要です。

他の西軍大名との比較|なぜ宗茂だけが旧領に戻れたのか

宗茂の復帰がどれほど異例だったかは、同じ西軍の主要大名が受けた戦後処分と並べるとよく分かります(関ヶ原の戦いの戦後処理 – Wikipedia)。

大名 戦後の処分 その後の経緯
立花宗茂 改易(全領地を没収) 慶長11年(1606年)に大名復帰、元和6年(1620年)に旧領柳川へ復帰
石田三成 処刑 慶長5年(1600年)9月、京都六条河原で処刑
宇喜多秀家 配流 薩摩へ逃れたが後に発覚し、慶長11年(1606年)に八丈島へ流罪
毛利輝元 大幅な減封 西軍総大将。安芸広島120万5000石から周防・長門29万8000石へ

歴史研究者の渡邊大門氏は、関ヶ原後の西軍大名の状況を次のように述べています。

石田三成、小西行長らは斬られ、ほかの大名は改易されても、復活した例はほとんどない
——渡邊大門「関ヶ原合戦で改易されたが、のちに復活した稀有な存在の立花宗茂とは?」(Yahoo!ニュース個人)

毛利家は改易を免れたものの、旧領の安芸広島には戻れていません。宗茂はすべてを失いながら旧領にたどり着いた点で際立っています。ここまでの経緯からは、復帰を支えた要素として次の三つが読み取れます。

  1. 改易後も他家に仕えず、独立の身分を保ったこと
  2. 徳川家中の有力者である本多忠勝の世話と仲介を得たこと
  3. 一気の赦免ではなく、幕臣・小大名を経て段階的に信頼と実績を積み上げたこと(詳しい石高の推移は前章の年表を参照)

一方で、家康・秀忠が宗茂を起用した「動機」そのものは、史料から一つに断定できていません。この点は後の「諸説・論争点」で整理します。

史実と通説・逸話の違い

ここまでの年表は出来事の流れそのものを扱いましたが、宗茂には出来事とは別に、人物像を彩る逸話も数多く伝わります。ここでは、そうした逸話がどの史料に基づき、どこまで裏付けがあるのかを整理します(出来事の年代そのものについて出典間で記述が食い違う点は、次の「諸説・論争点」で扱います)。主な逸話・記述を出典の性格で整理すると、次のとおりです。

逸話・記述 主な出典 史料上の扱い
「秀吉公の恩義」を理由に東軍の誘いを断った 江戸期の軍記物『筑後将士軍談』 同時代史料の裏付けなし
秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と称賛 18世紀以降に編纂された『名将言行録』 同時代の一次史料での裏付けは未確認
大坂の陣(元和元年/1615年)で大野治房の動向や豊臣秀頼の出陣の有無を言い当てた 一般向けの歴史記事 一次史料・研究機関の解説での裏付けは未確認

「秀吉への恩義」発言は史実か、後世の創作か

宗茂が東軍への勧誘を断り、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と述べたという逸話が伝わります。渡邊大門氏は、この逸話について「史実とは思えず疑わしい」と指摘しています(渡邊大門氏の解説)。出典である軍記物は後世の脚色が入りやすい史料です。「義に厚い武将」という宗茂像はこの逸話と結びついて広まっていますが、宗茂が西軍に属した実際の理由を、この逸話から判断することはできません。

「東西無双」評価の出典と限界

天正18年(1590年)の小田原征伐の際、豊臣秀吉が諸将の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と称えたという逸話があります。忠勝と宗茂を並べるこの逸話は、のちに忠勝が宗茂の復帰を仲介したこととも重なりますが、二人の関係や宗茂が復帰できた理由を説明する根拠として用いることは避けたほうがよいでしょう。

諸説・論争点

前節が後世に語られた「逸話」の真偽を扱ったのに対し、ここでは年表の出来事そのものについて出典間で記述が食い違う点や、動機が一つに定められない点を扱います。今回の調査では、研究者どうしが名前を挙げて明確に対立している論点までは確認できませんでしたが、他の資料を読む際に注意したい点が二つあります。

  • 大名に復帰した年: 歴史街道・棚倉町公式サイト周辺の記述など複数の出典が慶長11年(1606年)とする一方、刀剣ワールドの武将年表ページは慶長8年(1603年)としています。本記事は複数の出典が一致する1606年を採用していますが、年代のずれ自体は解決されていません。年表を引用する際は複数の資料を確認することをおすすめします。
  • 家康・秀忠が宗茂を起用した動機: 本多忠勝の個人的な推挙や秀忠との信頼関係によるという説明と、大坂の陣を見据えた武将の確保・懐柔という幕府側の政治的思惑によるという説明の両方が見られます。いずれも研究者名を明示した出典までは辿れておらず、本記事は単一の理由に断定していません。どちらか一方の説明だけを載せる記事が多い点には注意してください。

ゆかりの地・史跡

宗茂の浮き沈みの舞台は、九州の柳川と東北の棚倉に残っています。訪問の際は、開館時間や料金などを各公式サイトで最新情報を確認してください(2026-09-30時点の情報に基づく記載です)。

  • 柳川城跡(福岡県柳川市): 宗茂が改易前、そして元和6年(1620年)の復帰後に城主を務めた柳川城の跡です。観光情報は柳川市の観光ページで確認できます。
  • 柳川藩主立花邸「御花」・立花氏庭園: 立花家の邸宅で、庭園「松濤園」は国指定名勝です。立花家に伝わる資料は公式サイト(tachibana-museum.jp)で確認できます。
  • 棚倉・赤館城跡(福島県棚倉町): 宗茂が大名として再出発した地です。歴史・文化財の情報は棚倉町公式サイトにまとめられています。

柳川藩主立花邸「御花」内の立花氏庭園(松濤園)

出典: “柳川市 立花氏庭園” by 江戸村のとくぞう / CC BY-SA 4.0

まとめ

立花宗茂が改易されても大名に復帰できたのは、一度の赦免によるものではなく、約20年をかけた段階的な復権の結果だったと考えられています。

  • 関ヶ原本戦には参加せず大津城を攻めていたが、西軍敗北後に柳川城を開城して改易された
  • 浪人時代に加藤清正・前田利長の仕官の誘いを断り、独立の身分を保った
  • 本多忠勝の世話と仲介で御書院番頭5000石となり、棚倉1万石で大名に復帰した
  • 3万石への加増を経て、元和6年(1620年)に旧領柳川10万9200石へ戻った
  • 「秀吉への恩義」発言や「東西無双」評は後世の書物に由来し、同時代史料の裏付けはない

処刑・流罪・減封となった他の西軍大名と比べると、宗茂の歩みは異例でした。一方で、幕府が宗茂を重用した動機は、今も一つには絞り切れていません。

さらに詳しく知りたい方は、宗茂の改易から復帰までを扱った学術的な評伝、中野等『立花宗茂』(吉川弘文館・人物叢書)を手に取ってみてください。史料に基づく人物像に触れたうえで柳川や棚倉を訪ねれば、逸話とは違う等身大の宗茂が見えてくるはずです。

参考文献・典拠

本文で参照した出典は以下のとおりです(いずれも2026-09-30確認)。

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