坂本龍馬の肖像写真(上野彦馬撮影とされる)
History

坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか|史実を整理する

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「坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか」。幕末史の中でもとくに有名な謎ですが、ネット上には「黒幕は薩摩藩」「紀州藩の報復」といった説が、根拠の示されないまま断定的に書かれていることも少なくありません。

この記事では、史料と研究から「どこまでがわかっていて、どこからがわかっていないのか」を切り分けて整理します。近江屋事件の流れ、実行犯をめぐる説、黒幕説の現状、そして現地で事件をたどれる史跡まで、順に見ていきましょう。

坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか|結論

坂本龍馬は、慶応3年11月15日(旧暦。西暦1867年12月10日)の夜、京都・河原町の近江屋で中岡慎太郎と会談していたところを襲われ、亡くなりました。この日は龍馬自身の33歳の誕生日(旧暦)でもあったとされています(高知県立坂本龍馬記念館)。

実行犯については、元京都見廻組(幕府の治安維持部隊)隊士・今井信郎の供述から、見廻組の佐々木只三郎らによる犯行とする説が有力と考えられています。日本大百科全書も龍馬は「幕府見廻組に襲われて斃れた」と記しています(コトバンク/日本大百科全書)。

一方で、「誰の指示で、なぜ龍馬が狙われたのか」という黒幕と動機については、それを直接示す一次史料が確認されておらず、現在も確定していません。つまり「なぜ暗殺されたのか」という問いに対する答えは、「実行した集団はおおむね絞り込まれているが、動機と命令系統はわかっていない」というのが現時点での整理です。

論点 現在の評価
いつ・どこで・誰が亡くなったか 研究通説として広く一致している
実行犯 京都見廻組説が有力(今井信郎の供述による)
黒幕・動機 諸説あるが学術的な決着はついていない

ここからは、龍馬の生涯から事件までの流れ、後世に作られたイメージとの違い、実行犯と黒幕をめぐる論点、ゆかりの地の順に詳しく見ていきます。日付は元号と西暦を併記し、旧暦の日付には「(旧暦)」と注記しています。

坂本龍馬の肖像写真(上野彦馬撮影とされる)

出典: Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

坂本龍馬の生涯と近江屋事件までの流れ(年表)

まずは事件に至るまでの主な出来事を年表で確認します。出典は主に高知県立坂本龍馬記念館の公式サイトです。

年月日 出来事
天保6年11月15日(旧暦。西暦1836年1月3日) 土佐藩の郷士・坂本八平の次男として高知城下に生まれる
文久2年(1862年)3月 28歳で土佐藩を脱藩
文久2年(1862年)秋 江戸で勝海舟の門下に入る
慶応3年(1867年)1月 後藤象二郎と結び、土佐藩に復帰
慶応3年(1867年)4月 亀山社中を海援隊に改組し、隊長に就任
慶応3年10月14日(旧暦) 徳川慶喜が大政奉還の上表を提出
慶応3年11月15日(旧暦。西暦1867年12月10日) 近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃される

誕生から脱藩まで

龍馬は天保6年(1836年)、土佐藩の町人郷士・坂本八平の次男として高知城下に生まれたとされています。文久2年(1862年)3月、28歳で藩を離れる「脱藩」に踏み切りました。

勝海舟との出会いと海援隊の結成

脱藩した年の秋、龍馬は江戸で勝海舟の門下に入ったと考えられています。その後、慶応3年(1867年)1月に土佐藩参政・後藤象二郎と結んで藩に復帰し、同年4月には亀山社中(龍馬が長崎で結成した貿易・運輸組織)を「海援隊」に改組して隊長となりました。脱藩浪士から、藩とつながりを持つ組織の長へと立場が変わった時期です。

大政奉還と近江屋事件

慶応3年10月14日(旧暦)、将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上する大政奉還の上表を提出します。そのわずか1か月後の11月15日夜、龍馬は京都河原町通蛸薬師下るの近江屋(醤油商・井口新助邸)で襲撃されました。龍馬は現場で亡くなり、中岡慎太郎も2日後に死亡したとされています(京都観光Navi)。

史実と通説の違い

龍馬については、小説やドラマを通じて広まったイメージと、史料から確認できることの間にずれがある点も知られています。ここでは事件の理解に関わる2つの論点を取り上げます。

「船中八策」はいつ語られるようになったのか

「船中八策」は、大政奉還や議会の開設などを盛り込んだ新国家構想で、龍馬が船の上で起草し、慶応3年6月に後藤象二郎へ示したと一般に語られてきました。

これに対し、知野文哉氏は『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』(人文書院、2013年)で、現存最古の龍馬伝記である坂崎紫瀾『汗血千里の駒』には船中八策の記載がないことを指摘しています。同書によれば、「船上で起草した」という逸話は昭和4年(1929年)刊の平尾道雄『坂本龍馬海援隊始末記』で初めて描かれ、その後に史実として扱われるようになったといいます。

従来の理解と、この実証研究による見方は併存しており、評価は分かれています。少なくとも「船上で起草した」という場面がいつから語られるようになったのかには、研究上の検討が加えられていると押さえておくとよいでしょう。

当初は新選組が疑われていた

近江屋事件の犯人像も、時代とともに変わってきました。事件直後は、現場に残された刀の鞘や下駄といった遺留品、そして襲撃者が「こなくそ」という四国・中国地方の方言を発したとする中岡慎太郎の証言から、新選組が強く疑われたとされています(刀剣ワールド)。ただし「こなくそ」の発言は中岡の証言に基づく伝承で、複数の同時代史料による裏付けは確認されていません。

この疑いは、慶応3年12月7日(旧暦。西暦1868年1月1日)の「天満屋事件」にもつながったと考えられています。紀州藩が新選組を動かしたとみた海援隊・陸援隊士ら(陸奥宗光・中井庄五郎・沢村惣之丞ら)が、京都の旅籠・天満屋で紀州藩士・三浦休太郎を襲った事件です。三浦の護衛には新選組の斎藤一らがつき、襲撃側では中井庄五郎が亡くなったとされます。

しかし旧新選組隊士は、のちの取り調べでいずれも関与を否定しました。そして明治に入り、見廻組の元隊士・今井信郎の供述が出たことで、見廻組説が有力になっていきます。

近江屋事件の諸説・論争点(実行犯と黒幕)

ここでは研究者の間で見解が分かれる点を、「実行犯」と「黒幕」に分けて両論併記で整理します。

論点1:実行犯は京都見廻組か、新選組か

見廻組とする説の根拠は、今井信郎の供述です。今井は明治3年(1870年)の兵部省・刑部省の取り調べで、見廻組与頭(組織の責任者)・佐々木只三郎の指示のもと、佐々木・今井・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助・土肥仲蔵・桜井大三郎の7名で近江屋を襲撃し、佐々木ら4名が実行犯として龍馬らを殺害したと述べたとされます。この口上書(取り調べでの供述を記録した文書)は大正15年刊『坂本龍馬関係文書』に収録されています(WEB歴史街道)。

さらに『勝海舟日記』明治2年(1869年)4月15日条にも、今井が「佐々木唯三郎首トシテ」犯行に及んだと自供したという伝聞が記されています。磯田道史氏や桐野作人氏をはじめ、現在の研究者の多くがこの説を採っていると考えられています。

ただし今井の証言は時期によって変わっています。取り調べ当初は「自分は見張り役だった」と述べ、明治33年(1900年)の新聞取材では「自分が斬った」と語りました。そのため、4名のうち実際に誰が刃を振るったかという細部は確定していません。

新選組とする説は、前述の遺留品や「こなくそ」の証言を根拠に、事件当時の海援隊関係者らに広く信じられていた見方です。ただし旧隊士は全員が関与を否定しており、現在この説を学術的に支持する研究者の著作は確認されていません。

論点2:見廻組の背後に「黒幕」はいたのか

黒幕は確認されていないとする見方では、特定の藩や人物が龍馬暗殺を命じたことを示す一次史料が見つかっていない点を重視します。見廻組は、寺田屋事件で奉行所方の与力を龍馬に殺害された恨みから独自に、あるいは幕府の治安維持方針の範囲内で動いたと考える立場です。桐野作人氏は『龍馬暗殺』(吉川弘文館、2010年)で、薩摩藩黒幕説を同時代史料の検討から批判しています。

黒幕が存在したとする見方には、主に次のような説があります。いずれも当時の対立関係から推し量った状況論で、学術的な決着はついていません。

説 主な主張 現状
薩摩藩黒幕説 徳川慶喜を新政府に含める龍馬の構想が、武力倒幕をめざす薩摩藩首脳の方針と対立していた 流布しているが、命令系統を示す史料は確認されていない
紀州藩黒幕説 いろは丸事件(龍馬が仲介した船の衝突事故)の賠償への報復として、三浦休太郎を通じて新選組を動かした 天満屋事件から当時そうした見方があったことはわかるが、指示の証拠は確認されていない
土佐藩陰謀説 土佐藩側が暗殺に関与したとする 流布しているが、学術的に支持する研究は確認できていない

こうした黒幕説は話題になりやすいものの、「〜という説が流布しているが、学術的な決着はついていない」と受け止めるのが妥当でしょう。断定的に「黒幕は〇〇」と書く記事を見かけたら、どの史料に基づいているかを確かめることをおすすめします。

坂本龍馬ゆかりの地・史跡

事件の現場や龍馬の墓、故郷・高知の史跡は、現在も訪ねることができます。

近江屋跡(京都市中京区)

近江屋の建物は現存せず、跡地(河原町通蛸薬師下る塩屋町)の西側半分はコンビニエンスストアになっています。「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の石碑は、土地所有者の了承が得られなかったため、跡地の北隣に建てられています(京都観光Navi)。

京都霊山護国神社・坂本龍馬の墓(京都市東山区)

龍馬と中岡慎太郎の墓は、京都霊山護国神社境内の霊山墓地にあります。同神社は明治元年(1868年)創建の、日本初の官祭招魂社とされています。墓所の様子はWikimedia Commons(CC BY-SA 2.0)で確認できます。

桂浜の坂本龍馬像と高知県立坂本龍馬記念館(高知市)

桂浜の龍馬像は、高知県出身の彫刻家・本山白雲の作で、昭和3年(1928年)5月27日に除幕されました。像高5.3メートル、台座を含む総高は13.5メートルあります(高知市観光協会)。近くの高知県立坂本龍馬記念館へは、遊歩道「椿の小道」を歩いて10分以上かかります(同館公式・アクセス)。像の写真はWikimedia Commons(CC BY 3.0)で確認できます。

史跡の基本情報(2026-10-04時点)

史跡 所在地 見学情報
近江屋跡(遭難之地の石碑) 京都市中京区河原町通蛸薬師下る塩屋町 石碑は跡地の北隣にある
京都霊山護国神社・霊山墓地 京都市東山区 境内参拝は無料。墓地拝観は大人300円・小中学生200円、9:00〜17:00、年中無休とされる
桂浜の坂本龍馬像 高知市桂浜 見学自由(無料)
高知県立坂本龍馬記念館 高知市浦戸城山830 専用駐車場は無料(普通車42台)。開館時間・休館日・入館料は本記事執筆時点の出典では確認できなかったため要確認です。訪問前に同館公式サイトで最新情報をご確認ください

霊山墓地の拝観料・時間は観光案内情報に基づくもので、改定されている可能性があります。訪問前に神社の公式情報で最新の内容を確認してください。同様に、高知県立坂本龍馬記念館の開館時間・休館日・入館料も変動する可能性があるため、必ず公式サイトでご確認ください。

まとめ

坂本龍馬がなぜ暗殺されたのかを、確定していることと、していないことに分けて整理すると次のとおりです。

  • 確定的に語られていること:慶応3年11月15日(旧暦)、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃され、龍馬は現場で、中岡は2日後に亡くなった
  • 有力とされること:実行犯は佐々木只三郎ら京都見廻組で、根拠は今井信郎の供述と『勝海舟日記』の記録
  • 確定していないこと:見廻組を動かした黒幕の有無と、龍馬が狙われた動機。薩摩藩・紀州藩・土佐藩などの説は流布しているが、学術的な決着はついていない

「なぜ」の答えが出ていないからこそ、この事件は今も多くの人を惹きつけます。さらに深く知りたい方は、下記の研究書で史料批判の過程をたどってみてください。3冊のうち、まずは一般読者向けに書かれた磯田道史『龍馬史』から読むと、暗殺の経緯と史料の読み方を無理なく追いやすいでしょう。実行犯・黒幕説をより史料批判的に検証したい方は桐野作人『龍馬暗殺』、龍馬像そのものがどう形作られてきたかに興味がある方は知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』(本文中のリンク先を参照)に進むのがおすすめです。京都や高知の史跡を訪ね、年表の出来事を現地で確かめてみるのもおすすめです。

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参考文献・典拠

本文で参照した出典は次のとおりです(Webページは2026-10-04確認)。

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